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  • エクイティとは何か ── 「平らにする」思想が「信任の資本主義」に至るまで

    「Equity(エクイティ)」ほど、現代社会で多義的に使われている言葉は珍しいのではないでしょうか。 金融の世界では「株主資本」を意味し、法学では「衡平法(こうへい-ほう)」を意味し、政治哲学では「公正」を意味します。医療政策では「健康の公平性」を、教育では「機会の公平性」を指します。 一見すると、これらはバラバラの概念に見えます。貸借対照表の右下の数字と、アリストテレスの正義論とが、同じ一つの言葉で呼ばれているのは、単なる偶然なのでしょうか。 偶然ではありません。 そして、これは単なる語源の豆知識でもありません。 本稿の結論を先に述べておきましょう。 Equityとは、「傾いた関係を、あるべき均衡へと回復する原理」です。この原理は歴史の中で、哲学の概念から法の制度となり、法の制度から「信託(Trust)」という発明を生み、信託から「株式会社」と「株主資本」を生みました。そしてその全過程を貫いて、Equityは一つの人間関係の型を鍛え上げてきました。 それが「信任関係(fiduciary relationship)」──他者の利益のために裁量を託され、その信頼に誠実をもって応える関係──です。 したがって、あなたの会社の貸借対照表の右下にある「純資産(Equity)」は、単なる会計上の残高ではありません。それはあなたに寄せられた信任の残高であり、経営者とは、その信任の受託者(fiduciary)なのです。 なぜそう言えるのか。 この言葉の系譜は、紀元前5世紀から4世紀の古代ギリシア──ソクラテスが問答を交わし、アリストテレスが正義を論じた、あのアテナイ──にまで遡ることができます。そこから数えて、およそ2500年。哲学の概念として生まれた「衡平」が、ローマの法となり、イングランドの裁判所となり、信託と株式会社を生み、現代の貸借対照表に刻まれるまでの、2500年の道のりです。 その道のりを辿りながら、確かめていきましょう。 |「平らにする」という原初の発想 Equityの祖先は、ラテン語の aequus(アエクウス) です。 この語は「平らな」「水平な」「等しい」「偏りのない」を意味しました。ここから「公平」を意味する名詞 aequitas(アエクイタス) が生まれ、英語の equity へとつながっていきます。equal(等しい)や equilibrium(均衡)も、同じ語根から生まれた兄弟です。 注目すべきは、古代人が公平を「水平」という空間の比喩で捉えていたことです。 傾いた土地では、水は低い方へ流れ去ってしまいます。土地が水平であってはじめて、水は隅々まで均しく行き渡ります。 公平とは、傾いてしまった人間関係を、水平な状態へと戻すこと。 つまりEquityは、その誕生の瞬間から、静的な「状態」ではなく、均衡を回復する「働き」を指す言葉だったのです。 この一点を、本稿の最後まで記憶にとどめておいてください。Equityの2500年は、この「回復する働き」が姿を変えながら受け継がれていく歴史だからです。 |法を正す正義──アリストテレスのエピエイケイア ローマに先立ち、古代ギリシアでこの思想を最初に理論化したのが、紀元前4世紀のアリストテレスです。本稿が「2500年」と呼ぶ系譜の、これが出発点にあたります。『ニコマコス倫理学』第5巻で彼が論じた ἐπιείκεια(エピエイケイア) は、後にラテン語の aequitas の訳語を得て、Equity の思想的源流となりました。 アリストテレスの議論の要点は、こうです。 法律は、その性質上、一般的なかたちでしか書くことができません。しかし現実に生起する事柄は、個別で、例外に満ちています。一般的なルールを個別の事情に杓子定規に当てはめれば、法を守ることによって、かえって不正義が生まれる場面が必ず出てきます。 そこで必要になるのが、エピエイケイア──法の一般性がとりこぼす個別の事情に即して、法を補正する正義です。 アリストテレスはこれを、レスボス島の建築で使われた鉛の定規にたとえました。硬い直線の定規ではなく、石の凹凸に沿って曲がる、柔らかい鉛の定規。定規の方が現実に合わせて形を変えるのです。 ここで重要な転回が起きています。 正義(Justice)が「ルールの適用」だとすれば、衡平(Equity)は「ルールでは掬(すく)いきれないものへの応答」です。つまりEquityは当初から、規則(Rule)ではなく理(Reason)によって判断するという思考様式を含んでいました。 規則が沈黙する場面で、それでも正しく判断する。 ──後に見るように、これはそのまま、現代の経営者に求められる判断の型でもあります。 |ローマのAequitas──「法の精神」への昇格 ローマ法において、aequitas は「厳格な法(strictum ius)」と対をなす概念となりました。 法文を厳格に適用するだけでは救済されない当事者を、法務官(プラエトル)は aequitas に基づいて救済しました。「法の文言」に対する「法の精神」。ローマの法格言はこの緊張を鋭く言い当てています──「最高の法は、最高の不法でありうる(summum ius, summa iniuria)」。 ギリシアで生まれた哲学的概念は、ローマで法運用の原理へと昇格したのです。 |東方の対位法──法家、秦帝国、そして法を正す法 ここで一度、視線を東に転じてみましょう。「傾いた関係を平らにする」という発想は、西洋文明の専有物ではないからです。 エピエイケイアが論じられていたのとほぼ同じ紀元前の時代、春秋戦国の中国に法家(ほうか)──商鞅、韓非子ら──が現れました。彼らの思想の核心は、身分・血縁・情実によって傾いた統治を、「法」という単一の物差しで均(なら)すことにあります。商鞅は身分による刑の等級を廃し、韓非子は「法は貴きに阿(おもね)らず」──大工の墨縄が曲がった木に合わせてたわまないように、法は権勢者の前でも曲がらない──と説きました。 人格的・恣意的な支配を、規則による非人格的な統治へ。この徹底した「水平化」の思想こそが、辺境の一国にすぎなかった秦を強国に変え、中国最初の統一帝国を可能にしました。統一後の度量衡・文字・車軌の標準化もまた、帝国全土を単一の物差しで「平らに均す」事業だったと言えるでしょう。 つまり、「均(ひと)しさ」への意志は、東西の文明が独立に到達した、普遍的な統治原理なのです。貸借対照表のEquityに流れ込む思想の水脈は、地中海だけから発しているのではありません。 しかし、ここからが重要です。 その秦帝国は、統一からわずか15年で崩壊しました。『史記』の伝えるところでは、帝国を崩壊させた最初の反乱──陳勝・呉広の乱──の引き金は、大雨で兵役の期日に遅れれば法により死罪、という法の硬直でした。どのみち死ぬのなら、と民は立ち上がったのです。 法家は「規則による水平化」という第一の契機を極限まで実現しました。しかし、アリストテレスがエピエイケイアに託した第二の契機──規則がとりこぼす個別の事情への応答、すなわち「法を正す法」──を、統治の中に組み込みませんでした。続く漢王朝がその欠落を埋めます。漢は儒家の「徳」を法に接ぎ木し(徳主刑輔)、董仲舒は経書の精神に照らして個別の事案を裁く「春秋決獄」──行為の文言ではなく心情と文脈を量る裁き──を行いました。大法官府に先立つこと千数百年、東洋にもまた、衡平の契機が要請されていたのです。 規則(Rule)だけの統治は、帝国を作ることはできても、保つことはできない。法には、法を正す衡平が伴わなければならない──。 この東方の教訓は、本稿の終盤、現代のコーポレートガバナンスを論じる場面で、もう一度立ち返ることになります。 さて、視線を西に戻しましょう。Equityが「理念」や「運用原理」を超えて、独立した「制度」となるのは、中世イングランドを待たねばなりません。そして、その制度化の過程でこそ、現代の資本主義に直結する発明が生まれます。 |制度となったエクイティ──イングランド大法官府 中世イングランドのコモン・ロー(普通法)裁判所は、極端な形式主義に陥っていました。 定められた訴訟方式(令状)に合致しない請求は、内容の正当性にかかわらず門前払いとなる。証書の文言がわずかに違えば敗訴する。相手方が証書を悪用していると誰の目にも明らかでも、法はそれを裁けない。 救済されなかった人々は、正義の最終の源泉である国王に直訴しました。国王はこれを大法官(Lord Chancellor)に委ね、大法官は「コモン・ローの帰結が良心(conscience)に反する」場合に、独自の救済を与えるようになります。 こうして生まれたのが大法官府裁判所(Court of Chancery)、すなわち衡平法裁判所(エクイティ裁判所)です。 以後、イングランドには二つの裁判所が並び立つことになりました。「法の文字」を司るコモン・ロー裁判所と、「良心」を司るエクイティ裁判所。前者が一般的規則の厳格な適用を貫くのに対し、後者は規則の適用がもたらす個別の不正義を補正する。この二元体制は、両者が組織上統合される19世紀後半の裁判所法まで、実に数百年にわたって続きました(そして統合後の今日でも、コモン・ローとエクイティは英米法の中で別個の法体系として生き続けています)。エクイティ裁判所は「良心の裁判所」と呼ばれ、コモン・ローと並走するもう一つの法体系──衡平法(Equity)──を発展させました。 現代の英米法で使われるTrust(信託)、Injunction(差止命令)、Specific Performance(特定履行)は、すべてこの衡平法から生まれた制度です。 ここでEquityは、ついに理念から制度になりました。 そして、この衡平法裁判所が生んだ最大の発明が、次に見る「信託」です。イングランド法制史の泰斗F・W・メイトランドは、信託の観念こそイングランド人が法学の領域で成し遂げた最大の、最も特徴的な功績である、という趣旨の評価を残しています。 なぜ、一介の法技術がそれほどの評価を受けるのか。 信託が、「所有」という概念そのものを二重化したからです。 |信託の発明──所有が二重になる 信託の原型は、12世紀*ごろ、中世イングランドの「ユース(Use)」と呼ばれる仕組みです。 (*) 「信託」は封建社会の産物であり、近代の「契約」という概念よりも歴史が古い。契約法が発展し整備されたのは近代社会になってから、ようやく18世紀以降のこと。信託は共同体的価値観が基盤となっており、契約は市場的価値観が基盤となっている。英米法では財産法、信託法、契約法の独立した三つの法体系がある。(参考:樋口範雄『フィデュシャリー[信認]の時代―信託と契約』,1999) 十字軍に従軍する騎士は、長期の不在の間、所領を信頼できる友人の名義に移し、「収益は私の妻子のために用いてほしい」と託しました。ところが帰還してみると、友人が「土地の法的な所有者は私だ」と開き直る。コモン・ロー上、名義は確かに友人にあります。コモン・ロー裁判所は騎士の家族を救済できません。 救済したのは、エクイティ裁判所でした。大法官は、こう考えました。 「なるほど、コモン・ロー上の所有権(legal title)は友人にある。それは否定しない。しかし友人は、託された目的のためにその所有権を保持しているのであって、それを自分の利益のために用いることは良心に反する。ゆえに衡平法は、受益者(妻子)のために友人を拘束する」 この瞬間、人類の所有概念に決定的な分裂が生じました。 同じ一つの財産の上に、 ・ 法的所有権(legal ownership)──受託者(trustee)が持つ、形式上・名義上の所有権 ・ 衡平法上の所有権(equitable ownership)──受益者(beneficiary)が持つ、実質上の権利 という二つの所有権が同時に成立することになったのです。 そして、この二重構造は、必然的に一つの人間関係の型を要求します。 受託者は、財産に対する完全な法的権限を握っています。売ることも、貸すことも、運用することもできる。しかしその権限は、自分のためではなく、受益者のために行使されなければならない。 強大な裁量と、他者利益への拘束。 この緊張関係を規律するために衡平法が鍛え上げた法理が、信任義務(fiduciary duty)です。その中核は二つ── 忠実義務(duty of loyalty): 受託者は、受益者の利益と自己の利益が衝突する立場に身を置いてはならない。託された地位を利用して私益を図ってはならない。 注意義務(duty of care): 受託者は、思慮ある者が自らの財産を扱うのと同等以上の注意をもって、託された財産を管理しなければならない。 fiduciary の語源は、ラテン語の fiducia(信頼)、さらに遡れば fides(信義) です。信任義務とは、文字通り「信頼に法的拘束力を与えたもの」なのです。 ここで、本稿の系譜を一度つなぎ直しておきましょう。 「傾いた関係を水平に戻す」という古代の発想は、アリストテレスにおいて「法がとりこぼす個別事情への応答」となり、大法官府において「良心による救済」となり、信託において「託した者と託された者の間の、力の非対称を正す法理」へと結晶しました。 受託者は強く、受益者は弱い。名義は受託者にあり、受益者には形式上の権利がない。この圧倒的に「傾いた」関係を、信任義務が「水平」に戻す。 信任とは、衡平の子なのです。 |信託から株式会社へ──株主資本が「Equity」と呼ばれる理由 では、この法制度史が、なぜ貸借対照表の右下につながるのでしょうか。 近代初頭のイングランドで、大航海への投資を束ねる仕組みとして合本会社(joint stock company)が発達します。多数の出資者から資金を集め、会社という器に委ね、事業の成果を持分に応じて分配する。東インド会社はその代表例です。 このとき、出資者の権利は法的にどう構成されたか。 出資者は、会社財産の個々の資産(船、商品、在庫)に対して、コモン・ロー上の所有権を持ちません。船の名義は会社にあります。出資者が持つのは、会社財産という基金(fund)に対する、実質上の持分──すなわち、信託における受益者の権利と同型の、衡平法上の権益(equitable interest)でした。 会社の負債をすべて弁済した後に残る価値。その残余に対する請求権。これが出資者の持分であり、衡平法上の権益として観念されたがゆえに、Equityと呼ばれたのです。 株主資本を「エクイティ」と呼ぶのは、金融業界の符牒でも、恣意的な命名でもありません。それは、株主と会社経営の関係が、歴史的に「信託」の構造から生まれたことの、言語上の刻印なのです。 会計恒等式を改めて見てみましょう。 Assets − Liabilities = Equity ( 資産 − 負債 = 純資産 ) この式が語っているのは、次のことです。 株主に帰属する価値は、最初から確定的に存在しているものではない。債権者・取引先・従業員など、すべての先順位の請求者への義務を果たした後に、はじめて残る。 つまりEquityとは残余請求権(Residual Claim)であり、それは「他者との関係をすべて衡平に整理し終えた後の持分」という、まさに衡平法的な構成を持っているのです。 |残余請求権という設計思想──なぜ資本は集まるのか 残余請求権という概念は、地味に見えて、資本主義の骨格そのものです。 会社が生む価値の分配には、明確な順位があります。従業員への給与、取引先への支払い、銀行への元利金、国への税──これらの確定請求権が先に立ち、株主は最後に残ったものだけを受け取ります。倒産すれば、株主の取り分は最後に、そして多くの場合ゼロになります。 株主は、最後に受け取り、最初に損失を吸収する存在です。 この「最劣後」の地位は、一見不利に見えます。しかし、この順位構造こそが、資本主義に二つの効果をもたらしました。 第一に、債権者が安心して貸せるようになりました。自分より先に損失を吸収してくれる厚いEquityの層があるからこそ、銀行は確定利息で資金を出せます。Equityは、システム全体の緩衝材(バッファー)です。 第二に、不確実性の引き受け手が明確になりました。フランク・ナイトが看破したように、確率計算が可能な「リスク」は保険や金利に転嫁できますが、計算不能な「不確実性」は、誰かが引き受けるしかありません。その引き受け手が、残余請求権者たる株主です。だからこそ、不確実性を引き受けた見返りとしての残余利益──企業者利潤──は、株主に帰属します。 エクイティ・ファイナンスとは、確定した過去への支払いではなく、計算不能な未来への信任投票です。投資家は、返済の約束という「契約」ではなく、経営者の判断という「裁量」に賭けています。 ここに、信託と同じ構造が再び現れていることに気づかれるでしょうか。 強大な裁量を持つ者(経営者)と、それに運命を委ねる者(株主)。 傾いた非対称な関係。 そして、それを水平に戻すエクイティの原理。 |所有と経営の分離──経営者は「受託者」である 1932年、バーリーとミーンズは『近代株式会社と私有財産』で、米国の大企業において所有と経営が分離した実態を明らかにしました。株式が広く分散した結果、会社を「所有」する株主は経営を実行できず、経営を実行する経営者は会社を所有していない。 このとき彼らが経営者の地位を説明するために持ち出した概念こそ、ほかならぬ受託者(trustee)でした。経営者は、株主から会社の支配を託された受託者であり、信任義務を負う──衡平法が信託のために鍛えた法理が、そのまま株式会社に移植されたのです。現代の会社法が取締役に課す忠実義務と善管注意義務は、この系譜の直系の子孫です。 ここで、現代の経営学を長く支配してきた一つの見方と対比しておく必要があります。 エージェンシー理論は、株主と経営者の関係を「本人(プリンシパル)と代理人(エージェント)の契約関係」として捉え、両者の利害の乖離(エージェンシー・コスト)を、監視と報酬設計──ストックオプション、業績連動報酬──によって最小化しようとしました。 この理論は多くの実務を生みましたが、決定的な前提の欠陥があります。契約で経営者の行動をすべて規律できる、という前提です。 しかし、思い出してください。Equityが引き受けているのは、確率計算可能な「リスク」ではなく、計算不能な「不確実性」でした。不確実な未来については、起こりうる事態を契約条項に書き尽くすことが原理的にできません。契約は必然的に不完備です。 契約が沈黙する場面──想定外の危機、前例のない機会、規則が答えを持たない局面──で、経営者はどう行動すべきか。 契約理論はここで答えを失います。答えを持っているのは、信任の法理です。すなわち、契約が尽きたところでは、託した者の利益のために、良心に従って判断せよ。 経済学者の岩井克人は、この点を突き詰めて、経営者の本質は株主の「代理人(agent)」ではなく「信任受託者(fiduciary)」である、と論じました。代理人は契約と対価で動きますが、受託者を最終的に規律するのは、契約に書けない部分を埋める倫理性です。会社制度は、純粋な利益計算だけでは成立せず、その中枢に信任という倫理的関係を組み込むことでしか作動しない──。 規則(Rule)ではなく理(Reason)で判断する。 アリストテレスが法の限界を補うものとしてエピエイケイアを要請してから2300年、大法官が良心の名においてコモン・ローを補正してから600年。同じ構造の問いが、「契約の限界を補うものとしての信任」というかたちで、現代の経営者の机上にあるのです。 |「公正」への現代的展開 視野を法と経営の外に広げれば、20世紀の政治哲学もまた、Equityの問題系を継承しています。 ジョン・ロールズは『正義論』で、全員を機械的に等しく扱うこと(Equality)ではなく、最も不利な立場にある人の状況を改善する限りで格差を正当化する、という原理(格差原理)を提示しました。形式的な等しさではなく、制度が関係の傾きをどう補正するかを問うたという点で、これはエピエイケイア以来の衡平の問いの現代版です。 マイケル・サンデルは、手続きの公正だけでは掬えない共同体の善を論じ、ジャック・デリダは、法は規則として定式化できるが、正義はつねに個別の他者への応答としてしか現れない、と論じました。「規則の一般性」と「個別への応答」という、アリストテレスが立てた緊張は、いまも哲学の最前線にあります。 一般に「equality(等しさ)は同じものを配ること、equity(公正)は必要に応じて配ること」と対比されますが、本稿の系譜を踏まえれば、より正確にこう言えるでしょう。 Equalityが「状態」の概念であるのに対し、Equityは「働き」の概念である。それは、関係の傾きを見抜き、均衡を回復し、そのうえで責任と権利を適切に配分する、動的な原理なのです。 |統合──Equityを貫く三つの契機 ここまでの系譜を、三つの契機に統合しましょう。Equityという言葉が2500年間、姿を変えながら保持し続けてきた構造です。 第一の契機──均衡の回復。 傾いた土地を水平にするように、力や情報や地位の非対称によって傾いた関係を、あるべき均衡へと戻す働き。語源のaequusから、ロールズの格差原理まで。 第二の契機──残余の引き受け。 他者への義務をすべて果たした後に残るものを受け取り、同時に、計算不能な不確実性と最終責任を引き受ける地位。会計のEquityから、企業者利潤まで。 第三の契機──信任への応答。 裁量を託された者が、規則や契約が尽きた場面で、託した者の利益のために理と良心に従って判断する義務。信託の受託者から、現代の取締役まで。 この三つは、別々の意味が偶然一つの単語に同居しているのではありません。均衡が破れやすい関係(第一)だからこそ、誰かが最終責任を引き受ける必要があり(第二)、その引き受けは契約では書き尽くせないがゆえに信任として構成される(第三)──一つの原理の、三つの側面なのです。 そして、この三つの契機がすべて交差する一点に立っているのが、経営者です。 |現代の経営者にとってのEquity──信任の会計 以上の認識は、経営の実務に、少なくとも四つの視座をもたらします。 第一。貸借対照表の純資産の部を、「信任の残高」として読むこと。 純資産は、調達コストのかからない自由なお金ではありません。返済期日がないという事実は、説明責任に期日がないことを意味します。負債が「契約による規律」だとすれば、Equityは「信任による規律」であり、後者の方が要求水準は高い。増資とは信任の追加供与であり、継続的な赤字による純資産の毀損とは、単なる会計上の目減りではなく、託されたものを損なうことです。自社の純資産の推移を、信任の履歴として読み直してみてください。創業時の資本金には創業者と初期の支援者の、利益剰余金には事業を通じて応えてきた信任の、それぞれ何年分かが積層しています。 第二。自らをエージェントではなく、フィデューシャリーとして定義すること。 エージェントの行動原理は「契約と報酬に応じて動く」ですが、受託者の行動原理は「契約が沈黙する場面でこそ、託した者のために判断する」です。不確実性の高い環境では、契約や規程やマニュアルが答えを持たない局面が構造的に増えます。そこで問われるのは、レスボスの鉛の定規のように、原理原則を保持したまま個別の現実に即して曲がる判断力と、その裁量を私益に用いない忠実さです。危機の局面で経営者の真価が問われるのは、まさに信任がそういう場面のために存在する原理だからです。 第三。信任の構造は、株主との間だけでなく、あらゆるステークホルダーとの間に存在すると認識すること。 従業員はキャリアという取り返しのつかない時間を、顧客は自らの課題の解決を、取引先は事業の継続を、それぞれ経営者の裁量に委ねています。いずれも契約書には書き尽くせない委託であり、その意味で信任です。日本の商人が長い時間をかけて練り上げてきた「三方よし」や、渋沢栄一が『論語と算盤』で説いた道徳経済合一の思想は、この多方向の信任を経験的に発見していた知恵だと読むことができます。ステークホルダー経営は近年の輸入概念ではなく、Equityの原義──関係の均衡の回復──に立ち返れば、資本主義の設計図に最初から書き込まれていた要請なのです。 第四。M&Aと事業承継を、「信任の移転」として設計すること。 会社を譲渡するとき、法的に移転するのは株式であり資産です。しかし実質において移転しているのは、従業員・顧客・取引先・地域が旧経営者に寄せてきた信任の総体です。デュー・デリジェンスが資産と負債を精査するように、譲る側と受け継ぐ側は、目に見えない信任の残高を精査し、その引き継ぎ方を設計する必要があります。買収価格が純資産を上回る部分──のれん──とは、会計的には超過収益力ですが、本稿の観点からは、まさに数値化された信任にほかなりません。承継とは資産の売買である以上に、受託者の交代なのです。 |コーポレートガバナンス論への示唆──「監視の設計」から「信任の設計」へ Equityがもたらす視座が、現代のコーポレートガバナンス論の袋小路に対して持つ意味を確認しておきましょう。 過去数十年のガバナンス改革は、その大部分がエージェンシー理論の設計思想の上に築かれてきました。独立取締役による監視、株式報酬による利害の整列、開示による規律。その根底にあるのは、経営者を「放っておけば私益に走る代理人」とみなす、いわば性悪説の人間観です。──お気づきでしょうか。これは、監視と信賞必罰の体系で統治を設計しようとした、法家の解とまったく同型です。 この装置群は一定の成果をあげました。しかし近年、その限界もまた明らかになっています。 第一に、「会社は誰のものか」を巡る論争の泥沼化です。2019年、米国の主要経営者団体ビジネス・ラウンドテーブルは、株主第一主義を見直し、すべてのステークホルダーへの責任を掲げる声明を発表しました。ステークホルダー資本主義とESGの潮流が世界を覆い、しかしその後、米国では「経営者が株主の資金で社会運動をしている」という反発から、ESGを巡る政治的な逆風(バックラッシュ)が吹き荒れました。「株主か、ステークホルダーか」という問いの立て方そのものが、利益の分捕り合戦と政治的な綱引きに転化してしまったのです。 第二に、形式の肥大です。日本でも、ガバナンス・コードの改訂、取締役会の独立性・多様性の要請、東京証券取引所による「資本コストや株価を意識した経営」の要請、政策保有株式の解消、アクティビストの活発化と、規律強化の潮流が続いています。これらの多くは必要な改革です。しかし、チェックリストと開示項目がいくら積み上がっても、ガバナンスの核心──規則が答えを持たない場面での、経営者の裁量の質──には届きません。監視の網の目をどれほど細かくしても、契約の不完備性は消えないからです。規則の積み増しだけで統治を全うしようとする試みが何に行き着くかは、秦帝国がすでに教えてくれています。 本稿の系譜は、この袋小路に対して、問いの立て直しを提案します。 「誰の利益に仕えるか」を問う前に、「経営者の裁量を、いかに信任として構成するか」を問うべきである。 Equityの原理から見れば、株主かステークホルダーかという二者択一は、そもそも問いが浅いのです。信任(fiduciary)とは、特定の受益者の利益を機械的に最大化する装置ではなく、託されたものに対して、利益相反を避け、誠実な裁量をもって応える関係の型です。オックスフォードのコリン・メイヤーが説く「パーパス(存在意義)を中核に据えた会社」の構想も、リン・ストウトによる株主価値最大化「神話」への批判も、経路は違えど、経営者を単なる代理人ではなく受託者として再定義しようとする試み──受託者性(trusteeship)の再発見──として読むことができます。 この視座に立つと、実務の景色も変わります。取締役会は、経営者を疑う「監視機関」である前に、社会と資本市場から会社に寄せられた信任を受託し、次代へ承継する機関となります。取締役会の実効性評価は、監視項目の網羅性ではなく、規則が沈黙した局面での判断の質を問うものになります。後継者計画(サクセッション・プラン)は人事の手続きではなく、信任の承継の設計になります。そして開示とIRは、規制対応ではなく、信任に対する応答──説明責任(accountability)の語義通り、託された者が自ら進んで行う「勘定の報告」──になります。 法家的な監視の設計は、ガバナンスの必要条件です。しかしそれを十分条件にするのは、規則が尽きたところで作動する原理、すなわち信任の設計です。コーポレートガバナンスの次の焦点は、監視の精緻化から、信任の構成へ移っていくでしょう。2500年の系譜は、その移行が流行ではなく、Equityという概念の本来の要請であることを教えています。 そして、企業とは「契約の束(nexus of contracts)」である、という見方も十分ではありません。取締役の株主に対する忠実義務、ファンドマネージャーの受益者に対する受託者責任、M&Aアドバイザーの信任義務(fiduciary duty)など、現代資本主義の高度な制度では、契約ではなく信任が中核にあります。 市場が機能するのは、規則や契約だけではなく、規則や契約では書き切れない部分を信任が支えているからです。 |結語──BS右下の数字を、誰からの信任として読むか 資本主義は、しばしば「利益を追求する仕組み」と説明されます。 しかし、古代ギリシアから現代の貸借対照表に至る2500年の系譜が示すのは、より深い構造です。資本主義を根底で支えているのは、市場でも貨幣でも株式会社という法形式でもなく、誰が最後に価値を受け取り、誰が最後まで責任を負うのかを秩序立てる原理──そして、その責任の引き受けを可能にする信任という人間関係の型です。 その全体を象徴する言葉が、Equityなのです。 「平らにする」という古代の空間的な比喩から出発したこの言葉は、法を正す正義となり、良心の裁判所となり、所有を二重化する信託を生み、株式会社と自己資本を生み、そして今、不確実な世界で裁量をふるうすべての経営者に、受託者としての規律を求めています。一方で、経営者そして企業にとっては引き受けた信任こそが、企業活動における力の源泉となるはずです。 最後に、一つの問いを置いて本稿を閉じましょう。 あなたの会社の貸借対照表、その右下の数字を、誰からの、何に対する信任として読みますか。 そして、契約も規則も答えを持たない次の局面で、あなたはその信任に、どう応えますか。 参考文献: 『ニコマコス倫理学』 The Nicomachean Ethics アリストテレス(前4世紀) 『韓非子』 韓非(前3世紀) 『近代株式会社と私有財産』 The Modern Corporation and Private Property アドルフ・A・バーリー、ガーディナー・C・ミーンズ 1932 『リスク、不確実性、利潤』 Risk, Uncertainty and Profit フランク・H・ナイト 1921 『イングランド法とルネサンス』ほか衡平法・信託法講義 Equity: A Course of Lectures F・W・メイトランド 1909,1936 『正義論』 A Theory of Justice ジョン・ロールズ 1971 『これからの「正義」の話をしよう』 Justice: What's the Right Thing to Do? マイケル・サンデル 2009 『法の力』 Force de loi: Le "fondement mystique de l'autorité" ジャック・デリダ 1994 "Separation of Ownership and Control" Journal of Law and Economics ユージン・F・ファーマ、マイケル・C・ジェンセン 1983 『株式会社規範のコペルニクス的転回』 Prosperity: Better Business Makes the Greater Good コリン・メイヤー 2018 The Shareholder Value Myth リン・ストウト 2012 『会社はこれからどうなるのか』『会社はだれのものか』 岩井克人 2003,2005 『信任関係の統一理論に向けて』 岩井克人 2016 『論語と算盤』 渋沢栄一 1916 トップ画像/サムネイル: ポンペイア・プロティナの硬貨。裏面にフィデースが描かれている。フィデース(Fides)はローマ神話における「信頼」の女神。 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Plotina_-_sestertius_-_RIC_0740.jpg

  • ハッカーの哲学とネットワーク社会の構造(1)Hacker’s Philosophy and the Structure of Network-society.

    Amazonのジェフ・ベゾス、Googleのセルゲイ・ブリンとラリー・ペイジ、Facebookのマーク・ザッカーバーグ、Microsoftのビル・ゲイツ、Appleのスティーブ・ジョブズ、Oracleのラリー・エリソン、Tesla,Space Xのイーロン・マスク、Twitter,Squareのジャック・ドーシー、Y Combinatorのポール・グレアム、ライブドアの堀江貴文、メルカリの山田進太郎、…。  彼らは自らのビジョンのもと、新たな市場を切り開いていった創業経営者です。 そして、彼らにはもうひとつの共通点があります。 彼らは皆、「プログラマ」出身者であるということです。  現代はコンピュータの時代です。 身の回りのすべてのものがコンピュータへと変わりつつあります。 そして、現代社会における技術革新の多くの部分がプログラマたちの貢献によって成されています。プログラマたちの仕事抜きでは、現代人の生活は決して成り立たないでしょう。  プログラマの中でも、特に創造的で、好奇心に溢れ、技術的にも優れ、問題を解決し、物事を築き上げる能力が高いプログラマのことを、プログラマたちは敬意を込めて 「ハッカー(hacker)」と呼びます。 コンピュータに侵入し、データを盗んだり、システムを破壊するような行為を行う人間、集団は「クラッカー(cracker)」であり、ここで説明するハッカーとは明確に分けておく必要があるでしょう。 基本的な違いは、ハッカーは新たに創造し、クラッカーは破壊します。  インターネットが大きな役割を果たしている現代ネットワーク社会を理解し、更にそれに貢献しようとするならば、その起源であるハッカーたちの創造性に触れることは、示唆に富み、あなたにとっても大いに有益で、インスピレーションを刺激し、新たな喜びを知るきっかけにすらなるでしょう。 フリー、シェア、IoT、人工知能、仮想現実/拡張現実、FinTech、暗号通貨、ブロックチェーンなどの新しい概念を理解するためにも、ハッカーの考え方を知っておく必要があります。  では、ハッカーたちの倫理と哲学、そして彼らの卓越した思考方法によって生み出されたネットワークの構造、それらについて考えてみましょう。 そして、コンピュータの時代にふさわしい形にどのように自社をアップグレードしていくべきなのかを検討していきましょう。 |ハッカー精神の偉大な成果、Linux  あなたは、Linux(リナックス、GNU/Linux)というオペレーティングシステム(OS)をご存知でしょうか? Linuxは、ハッカーたちによって創られ、育てられてきたOSです。 OSとは、コンピュータを動かすのにあたって最も基本的、中核的な役割を担うソフトウェアです。OSは、ユーザーとハードウェアの間を取り持ち、アプリケーションソフトウェアを使用するにあたってのメモリ(記憶領域)の割り当て、プロセスのスケジューリングを管理します。  世界で最も有名なOSはWindows(ウィンドウズ、Microsoft)でしょう。 多くの方が、この記事もWindowsを通して読んでいるのではないでしょうか。 それともスマートフォンからこのサイトに入ってこられたのであれば、OSはAndroid(アンドロイド)でしょうか。 または、iPhoneを使っていればiOSでしょう。  しかし、あなたの端末が何であれ、あなたはおそらく毎日Linuxを利用しています。 なぜなら、いまやLinuxはWindowsを圧倒する市場占有率を誇るOSとなっています。あなたは気づかぬうちにLinuxを使っていることでしょう。  LinuxがWindows以上の市場占有率を獲得しているのは、サーバー(集中処理向けコンピュータ)OS市場とスマホ・タブレットOS市場においてです。 サーバーOS市場においては、Linuxは74%、Windowsは18%(2016年1月時点)の市場占有率となっています。 スマホ・タブレットOS市場においては、Androidが70%以上(2017年6月時点)の市場占有率となっていますが、実はAndroidはLinuxベースで作られているOSです。 Linuxはインターネットの世界で、あなたが見るほとんどのウェブページを提供し、あなたが使うほとんどのアプリケーションを動かしています。GoogleやWikipedia、そしてFacebookもLinuxで動いています。 さらにスーパーコンピュータにおいては90%以上がLinuxをOSとして利用していると言われています。そのことからも機能の信頼性も推し量られるでしょう。  しかも、Linuxは、無料で自由に使える《フリーソフトウェア》です。 望めば誰でも自分のコンピュータに無償でダウンロードすることができ、完全に自らの管理のもと稼働させることができます。有償の追加サービスに誘導されることも、広告を浴びせかけられることも、自分のLinux上のデータを他者に利用されるようなこともありません。自分の使い方にあわせてカスタマイズすることもできます。そのため、自分のマシンを完全に理解し、自由に使いたいと考えるハッカーたちから支持されました。  そして、Linuxの特筆すべき点は、その開発マネジメント方法にあります。 下の写真は、Linuxの開発本部の写真です。 リーナス・トーバルズ(Linus Benedict Torvalds、1969年12月28日 ー )は今でも自宅の一室でLinuxの開発指揮をとっている。リーナス・トーバルズは、1991年にLinuxの開発をたった一人で自分の趣味として始めた。ネットワーク上でソースコードを公開し、GPL(ジー・ピー・エル、一般公衆利用許諾書/フリーソフトウェアとして誰でも自由に利用できることを保証したライセンス)を採用したことによって、当時著作権の係争で身動きがとれなくなっていたUNIX及び他のUnix系システムに代わって、瞬く間に世界中にユーザーが拡大した。現在でも数千人規模のプログラマたちと、Linuxを協働開発している。モットーは「楽しむこと(Just_for_fun)」。  サーバーOS市場のチャンピオンであり、世界のAndroid端末15億台上で実際に使われているOSの開発本部は、さぞ大層な施設かと思いきや、Linuxはいまでも開発者であるリーナス・トーバルズの簡素な自宅の一室を中心として開発されています。 しかし、Linuxの開発は、密室で孤立した天才たちによって行われたのではありません。むしろ逆に、公然と大規模にオープンに、情報は世界中に公開・共有されて開発されました。  はじまりは1991年、当時ヘルシンキ大学の学生であったリーナス・トーバルズの個人的な趣味プロジェクトとしてLinuxは始まりました。個人プロジェクトであったにも関わらず、ごく初期の段階でソースコードが開示されたことによって、飛び入り参加自由の完全に開かれたネットワーク環境を通じて世界各地のプログラマが自主的に開発に加わっていきました。Linuxは、いわば騒々しいバザールのような中で大規模に、混沌すら自らのうちに取り込んで成長し、いわゆる正統な開発チームが舌を巻くスピードで書き上げられていったのです。 インターネットの普及というグローバル規模のネットワーク化の流れに乗って、世界各地のハッカーコミュニティと繋がって加速するLinuxの成長は、Microsoftそしてビル・ゲイツに脅威を感じさせるのに十分なものでした。(ビル・ゲイツの後任のスティーブ・バルマーもCEO就任間もない2001年のインタビューで「Linuxはガンだ」と発言しLinuxへの警戒心を隠さなかった)  The Linux Foundationの2017年の発表によれば、Linuxの核となる「カーネル」部分のプログラムの開発には2005年公開のバージョン2.6.11以降(正確な開発状況が把握できるのがこのバージョン以降)、1513社の企業に所属する1万5637人の技術者が携わったと公表されています。 いまでも世界各地に散らばった数千人規模のプログラマたちが、自らの自由な時間をプログラミングに費やし、協働しながらソースコードを書き加えていっています。そして、そのために、ソースコードは開示されています。また、各プログラマが書き加えたプログラムは元のプログラムも含めて、第三者に自由に配ることもできます。  このようなソフトウェア開発の方法は《オープンソース》と呼ばれています。Linuxはオープンソースの代表格です。オープンソースの利点は、誰もが無料で利用・改変できるため急速に進化し、急速に広まることです。  そしてLinuxは、いまやWindowsにも劣らない、いや汎用性や自由度においては圧倒的に優れ、安定性においても引けをとらない最高峰のOSとして育っていきました。(そしていまも進化を続けています。) そして誰でも自由に使えて、機能を付け加えたり改変でき、変更を加えたものを自由に再頒布できるオープンソース・オペレーティングシステム「Linux」は世界で最も重要なコンピュターソフトウェアのひとつとなりました。 ひとりのコンピュータオタクの学生の趣味から始まったプロジェクトが世界を変えたのです。  この偉業を成し遂げるにあたっては、Linuxの根底に流れる、ハッカーの哲学が大きな役割を果たしました。 Linuxの実現を支えたコラボレーション(協働)に基礎を置くハッカーの哲学、倫理について、その起源から見てみましょう。 |電脳化のはじまり PDPー7。DEC(ディジタル・イクイップメント・コーポレーション、Digital Equipment Corporation)が1965年に発売したミニコンピュータ。ケン・トンプソンとデニス・リッチーらは、PDPー7に最初のUNIXを開発、実装した。  1969年、AT&Tのベル研究所に勤めるケン・トンプソンとデニス・リッチーらによってUNIX(ユニックス)というオペレーティングシステムが開発されました。  開発のきっかけは、ケン・トンプソンが余暇に書き上げ、夢中になっていた「Space Travel(宇宙旅行)」という自作の宇宙シミュレーションゲームが、研究所の大型コンピュータの撤去にともないプレイができなくなるのを避けるために、当時研究所で使われずにいたDECのPDP-7というコンピュータに移植する必要性があったためだと言われています。 移植のために、トンプソン、リッチーと数人の人たちが黒板のうえに、自分たちが快適だと思えるようなプログラミング環境の設計図と、その根幹となるすっきりとした考え方を描いたところから、すべてが始まりました。 UNIX及びUnix系の系統樹。UNIXの移植性の高さと自由度の大きさが、多くの派生的なシステムを生みだすことにつながった。緑色はオープンソース、ピンク色はクローズドソース、オレンジ色は両者の折衷ライセンスとなっている。特にビル・ジョイが開発をとりまとめたBSD UNIXは多くの派生OSを生みだし、UNIXの大きな支流の一つとなった。AppleのmacOSもBSDがベースとなっている。ビル・ジョイは天才的なプログラマとして知られ、vi(UNIX環境で人気の高いテキスト編集プログラム)を一週末で書き上げたなど、数多くの伝説的逸話がある。現在でも使われているUNIXとしてはmacOS、iOS、AIX、HPーUX、Solarisなどがある(いずれも商用)。また認証を受けていないUnix系としてはLinux(派生OSにAndroid他)やMINIX、BSDの派生OS(FreeBSD、NetBSD、OpenBSD、DragonFly BSDなど)、Raspbianなどがある。  UNIXシステムはケン・トンプソンとデニス・リッチーらによって開発されると、使い勝手の良さとシンプルで美しい設計が熱烈に支持され、また要望があれば無償で大学や研究機関に配られたため、多くのソフトウェア開発チームにも使用され、世界中に広まっていきました。(しかしまだこの段階では、UNIXはあくまでハッカー、研究者、オタクたちの楽園であって、一般的には知る人ぞ知るシステムでした。) リーナス・トーバルズによるLinuxもUNIXのように使えるOSを目指してつくられたOSです。同じようにUNIXのコンセプトをもとにつくられたOSはFreeBSDなど多種多様に存在します。  では、なぜUNIXシステムはコンピュータマニアたちの間で、熱狂的な支持を得ることになったのでしょうか? その理由はいくつか挙げることができますが、まず第1にUNIXが様々なコンピュータに搭載できたという「移植性」の良さがあげられます。そして第2に、システムのユーザーにプログラムのソースコードが開示されていたため「誰でも自由に」各々の用途目的にあわせて新たなプログラムを加えたり改良ができて、さらにそのプログラムをコピーして再配布できた点です。そして、最も重要なことは、UNIXがユーザーたち自らによって開発されたために、特にプログラマにとって「生産性の高いプログラミング環境」を提供できたということでしょう。 初期のユーザーで、開発者の一人でもあるブライアン・カーニハンは著書『The UNIX Programming Environment: UNIXプログラミング環境』の中で次のように述べています。 “UNIXシステムは、数多くの革新的なプログラムや技法をもたらすとはいっても、どれかひとつのプログラムあるいはアイデアでシステムをうまく動かしているのではない。UNIXを効果的にしているのは、プログラミングへのアプローチの仕方、つまりコンピュータ利用の哲学である。この哲学を一言で書きつけることはできない。しかしその核心にあるのは、システムの力というのは、個々のプログラムよりも、それらのつながり方にあるという考えである。UNIXの多くのプログラムは、それぞれ独立に極めて細やかな仕事をする。しかし、他のプログラムと結合すると、汎用的で役に立つツールとなるのである。” (Brian W. Kernighan, Rob Pike 著、石田晴久 訳、『UNIXプログラミング環境』、アスキー出版、1984、1985)  多くのハッカーたちが(ブライアン・カーニハンと同じように)、UNIXの存在理由であり最も重要な特性は、プログラムそのものではなくプログラムの「つながり方」、さらに言えばプログラマ同士の「結びつき方」(=コラボレーション)にあると考えました。 環境にあわせて柔軟に対応できる「つながり方」に重きをおく設計思想が、UNIXをプログラマたちのプログラミングツールとして、そしてコラボレーションのためのプラットフォームとして特別なものにしたのです。 |UNIXのプログラミング哲学 ケン・トンプソン(左、Kenneth Lane Thompson、1943年2月4日 ー )とデニス・リッチー(右、Dennis MacAlistair Ritchie、アカウント名はdmr、1941年9月9日 ー 2011年10月12日)は1969年にUNIXの原型となるOSを開発した。1972年には、デニス・リッチーはプログラミング言語Cを開発し、それまでアセンブリ言語(各ハードウェア固有の特性に依存する低水準言語)で書かれていたUNIXを高水準言語であるCによって書き換え、システムの移植性を飛躍的に高めた。長い髭からは当時のヒッピー・カルチャーからの影響も感じられる。ハッカー文化とヒッピー文化は既成概念からの脱却を唱える反中央集権的な考え方、自由な気風、多様性への共感など共通点も多い。ケン・トンプソンはUNIXを希望者にはソースコードと共にメディアのコピー代だけで発送し、“Love, Ken.”と添えたという。  UNIXは、ケン・トンプソンとデニス・リッチーも関わっていたMulticsという重厚長大なOSプロジェクト(頓挫した)から一部のアイデアを「借用」してつくりあげられました。Multicsの巨大なアーキテクチャに対してUNIXはよりコンパクトに、よりシンプルな設計を目指したことから、その名称もmulti(複数の、多くの)に対してuni(単体の)と対比させて名付けられました。 Multicsからアイデアを借りてくるにあたってトンプソンが採用した方法は、後のUNIXの開発者たちへの重要な先例となりました。 「よいプログラマは素晴らしいプログラムを書く。偉大なプログラマは素晴らしいプログラムを借りてくる。」 このことは、すべてを自らゼロから書き上げるのではなく、すでにあるものにクリエイティブな付加価値をつけることによって、より効率的に優れたプログラムをつくりあげるという、UNIX開発者にとって重要な指針となりました。また「借用」するという考え方は、優れたアイデアは皆で分かち合うことが重要なのだというハッカーたちの基本姿勢とも合致しました。 また、(巨大で複雑な)Multicsの失敗から学んでいたトンプソンとリッチーは、UNIXをシンプルでわかりやすいシステムにしようと努めました。そのことは「シンプルであることは美しい」というハッカーたちの重要な指針を示すことになりました。  UNIXのプログラム開発に関わっていたマイク・ガンカーズは1994年に、UNIXから得られた経験と、他のUNIXプログラマとの議論を経て、UNIXの哲学を9つの定理に集約しました。 ガンカーズのUNIX哲学(Gancarz,1994,1996)の9つの定理には、「もっとシンプルに」「早めに試作する」「移植性(ポータビリティ)」「梃子(レバレッジ)」「フィルタ」など、プログラマ以外の知識創造に携わる職種の人間にとっても、有益なコンセプトが凝縮されています。 /******** The UNIX philosophy ********/ 1.Small is beautiful.  小さいものは美しい。 小さいものには大きいものにはない利点がいくつもある。小さいプログラムはわかりやすく、保守もしやすく、資源の無駄遣いもない。そしてなにより、小さいプログラムはほかのプログラムと組み合わせやすい。小さいプログラムを組み合わせることで、予測のできない将来の課題にも柔軟に対応することができるだろう。未来は思っているより早く来る。 2.Make each program do one thing well. 一つのプログラムには一つのことをうまくやらせる。 ひとつのことに集中することで、不要な部分をなくし、やろうとしていることの本質をつかめる。多機能主義の誘惑は強いが、拡張を続けているうちにプログラムは大きく複雑なものとなり、もともとのコンセプトを見失い本来持っていた魅力も失われてしまうことに注意が必要だ。 3.Build a prototype as soon as possible. できるだけ早く試作する。 状況は刻々と変化する。しかも、まだ誰も試みたことのないことに挑むのであれば、暗闇を手探りで進むようなものだ。ならば、最初からうまくやろうとするより、「最初はうまくいかない」と考えて対処したほうが賢明といえるだろう。早い段階で試作をつくることによって、リスクを減らすこともでき、チームの目標を明確にすることもできる。 4.Choose portability over efficiency. 効率より移植性を優先する。 最大限に効率を重視したソフトウェアは、特定のハードウェア上で動かすことが前提となり、ほかのハードウェアでも動作させることのできる移植性が犠牲となる(すなわち最適化)。逆に移植性を優先すれば、しばしば効率が犠牲となる。しかし、次世代のハードウェアは考えている以上に早く現れ、もっと速く、もっと安価になる。移植性のあるソフトウェアは新しく、より強力なマシン上で動かすことができ、ソフトウェアの性能も向上し成長していく。ソフトウェアが生き残るには、次世代のハードウェアに移植される必要がある。早すぎる最適化、過度な最適化はむしろソフトウェアの寿命を縮める可能性が高い。移植可能なソフトウェアを書こう。 5.Store numerical data in flat ASCII files. 数値データはASCIIフラットファイルに保存する。 ソフトウェアにとって移植性が死活問題であるのと同様に、データにも移植性を持たせる必要がある。動かせないデータは、死んだデータだ。データの移動への障害となるものは、そのデータの潜在的な価値に限界を設けてしまう。データが移動できない期間が長ければ長いほど、その最終的なデータの価値は小さくなる。データはできる限り、ASCIIフラットファイルに保存して、ほかのシステムへの移植性を高めておこう。 6.Use software leverage to your advantage. ソフトウェアを梃子(てこ)として利用する。 プログラムを再利用することで、より効率的に新たなプログラムをつくることができる。既にあるものを、独自に書くことは非常に効率が悪い。自分の仕事に他人の仕事を取り込むことで、先人の成果を活用して、コードの有用性を一段と高めることができる。かつて、科学者アイザック・ニュートンは論敵への書簡で次のように述べている。「私がかなたを見渡せたのだとしたら、それはひとえに巨人の肩の上に乗っていたからです。」 7.Use shell scripts to increase leverage and portability. シェルスクリプトによって梃子の効果と移植性を高める。 UNIXにはシェルと呼ばれるコマンドインタープリンタが実装されている。シェルは一種のプログラミング言語の機能を持っており、ユーザーはシェルを通して、LISP、C、Perl、Python、Ruby、Javaといった高水準のプログラミング言語を使わずともコンピュータを動作させることができる。シェルを用いて作成された簡易プログラムのことをシェルスクリプトと呼ぶ。シェルはコマンド入力によってコンピュータを操作するための日常的なツールではあるが、ソフトウェアの梃子の効果を高めるために最適なツールとなる。シェルの簡易な記述による操作で、他人のつくったプログラムを活用し、目的が達成できるのであれば大いに活用すべきだ。シェルスクリプトを使えば、世界中の人々の仕事を合成することができ、小さな努力で大きな成果を上げられる。 8.Avoid captive user interfaces. 拘束的なユーザーインターフェイスを避ける。 拘束的なユーザーインターフェイスを持ったプログラムは、例えばディスプレイ上から、ユーザーに様々な選択を求める。このことは一見、ユーザーに複数の選択肢、または自由度を与えることで、ユーザーフレンドリーな設計のように思える。しかし、拘束的プログラムは、ユーザーからの回答が返ってくるまで、動作を止めることになる。様々な入力に対応できるようにするために、プログラムも大きくなる。そして、インターフェイスが人間を対象としているため、プログラム同士の結合が難しくなる。それによって拘束的プログラムは「単体型の大きく複雑なプログラム」となってしまうケースが多く、避けたほうが良い。 9.Make every program a filter. すべてのプログラムをフィルタとして設計する。 フィルタはデータがシステムを流れていくときに、いくつかの単純な変換を行うプログラムだ。フィルタは何か入力を読み込み、それに単純な変形を加え、何らかの出力を書き出す。そして、個々の小さいプログラムが他のプログラムと結合することによって、より複雑な処理を可能にする。プログラムがデータそのものを作り出すことはない。単に変更するだけだ。すべてのプログラムをフィルタとして作ろう。 /******************************************/ UNIXの考え方は、常に将来を見据えています。そして、常に変化し続ける世界が想定されています。  将来は不確実で予測できません。しかし、柔軟であり続けることによって、環境の変化に適応しながら前進することができるという、将来へのアプローチ方法の一つをUNIXは示しています。  このような考え方が、ハッカーたちのプログラミング哲学でありコンピュータ利用の哲学です。 ハッカーたちは彼らの哲学に従って、小さなプログラムを集め、柔軟なコラボレーションによって環境に応じて結合させることによって、効果的で汎用性のあるソフトウェアを生みだし、成長させていきました。 しかし、ハッカーの領域はソフトウェアだけではありません。彼らはコンピュータそのもの(=ハードウェア)もつくりあげてきました。更に奥深くハードウェアの世界まで潜っていきましょう。 Raspbian(Unix系OS)でシェルを開いた画面。Unix系のOSでは、シェルと呼ばれるコマンド・インタープリンタを通じてコンピュータを制御する。ヴィジュアルで直感的な操作を可能とするGUI(グラフィカル・ユーザ・インターフェイス)環境とは異なり、シェルはCUI(キャラクタ・ユーザ・インターフェイス)環境となっており、コマンドをタイプしてマシンを対話的に操作する。CUIはGUIに比べ操作の自由度が高く、プログラミングに適している。シェルのコマンドはls(list)、cat(concatenate)、sed(stream editor)、wc(word count)、vi、awk、grepなど無数のツールからなっており、組み合わせて使うことで大きな成果をあげる。コマンドは、それぞれが過去のハッカーたちのプログラミング作品でもあり、時を超えて引き継がれている。 |コンピュータの階層構造と抽象化  コンピュータは、いままで人類が創り出したものの中で、最も複雑な道具です。 コンピュータの総部品数は数十億個にもなります。ジャンボジェット機の総部品数は、コンピュータ部分を除けば、数百万個です。このことからもコンピュータがいかに複雑な機械であるのかがわかるでしょう。 仮にコンピュータの配線図をすべて描いたとしたら、図書館のすべての蔵書のページを埋めつくしてしまうほど膨大なものになります。  しかし、コンピュータはとてもシンプルな原則に従って設計されています。そのため、私たちはコンピュータの構造を理解するために膨大な配線図を描く必要はありません。途方もなく複雑なコンピュータを理解し取り扱うために、私たちは配線図を描く代わりに、「コンピュータの階層構造」について理解することで対処することができます。 私たちは、まずコンピュータの複雑な構造をいくつかのモジュール(基本部品)として機能別に分割して考えることによって全体を把握する道筋を得ることができます。 そして、各モジュールの技術的な側面(どのように行うのか?)と、論理的な側面(何をするのか?)を別々に考えることで、各モジュールに対して、それぞれのモジュールのことだけに集中して、全体または他のモジュールとは独立して取り組むことで複雑性に対処することができます。 モジュールの入力と出力を絞り込み、連結部分(インターフェイス)を明確化することによって、モジュール外部からは中身の詳細な設計を意識することなく全体を考え、組み立てることができるのです。  全体をモジュールに分割して、それらを幾層も積み重ねてコンピュータの階層構造を実現しているのが、人間だけに与えられた特別な能力、つまり物事を「抽象化」して考える能力です。「抽象化」とは、物事の本質的な要素を簡潔な方法でとらえて、それを抜き出し、他の要素とは分離して考えることで、より高次の概念(コンセプト)を創り出すことです。  ハッカーたちは、「抽象化」という思考方法を用いることによって「コンピュータの階層構造」を幾層も重ねて積み上げ、コンピュータのハードウェアとソフトウェアをデザインし、実装します。 それぞれの階層が抽象化された機能の「ビルディング・ブロック(構成要素)」の組み合わせによって実現されており、一つの機能を実行するビルディング・ブロックが別のビルディング・ブロックと組み合わされて、より複雑な機能を実現します。 下位のビルディング・ブロックの集合体(=モジュール)が、上位の階層を形成するためのビルディング・ブロックとなり、さらにそれらが組み合わされて上位の機能が構成されます。そして階層が重なっていくごとに、システムの能力も増していくことになります。 私たちの使っているコンピュータは上位の階層から順に、おおよそ以下のモジュール、階層によって構成されています。 ・プログラミング言語(高水準言語) ・オペレーティングシステム(OS) ・コンパイラ ・バーチャルマシン ・アセンブラ ・機械語 ・コンピュータアーキテクチャ ・回路 ・論理ゲート  私たちが普段使っている各種アプリケーションは、プログラミング言語とオペレーティングシステム上に搭載されています。高度な計算処理を行い、色鮮やかなグラフィカル・ユーザー・インターフェイスを持つアプリケーションも、プログラマーたちの優れた抽象化によって幾層にも積み重ねられた、コンピュータの階層構造の上に乗ることによって実現しています。 まるで点と点がつながり線となり、線と線が結び合わさって面となり、そしてさらに立体を構成していくように、ハッカーたちはシンプルなひとつの基本回路から抽象化の糸を織り重ねて、階層構造を織り上げて、システムの有用性や能力を高めてきたのです。 |プログラミング言語と機械語  では実際に、コンピュータの階層構造における最上位の階層であるプログラミング言語のコードから見てみましょう。  このコードは、ディスプレイ(モニター画面)上に、hello, worldと表示するプログラムのソースコードです。おそらく、プログラミングを学ぶときに誰もが最初に目にするコードです。 このプログラムは、stdio.h(Standard Input/Output header、標準入出力ヘッダー)というライブラリ(関数の集まり)を呼び出し、その中にあるprintf関数を用いてhello, worldとディスプレイに出力する簡単なコードです。このコードは、C言語というプログラミング言語によって書かれており、人が読める記述形式になっています。プログラミングの経験がない方でも、なんとなく読んでも意味が分かるのではないかと思います。  しかし、hello, worldのように一見すると簡単なコードも、実際には複雑な処理が重層的に組み合わさってコンピュータを動かすことになります。まず第一に、上記のプログラミング言語で書かれたコードをコンピュータは直接理解することができません。 コンピュータが理解して実行できるのは、下記のような0と1、つまりバイナリ(2進法)で記述された機械語(マシン語)のみです。機械語の0と1は、スイッチのONが1、OFFが0、とそれぞれ対応しています。  機械語は0と1の組み合わせによるビット(bit)、つまり2進法で表現されています。ビットは情報理論を確立した科学者クロード・シャノンによって定義された情報量の最小単位で、 シャノンはあらゆる情報は0と1の組み合わせに置き換えて表すことができることを示しました。(Shannon, 1948)  Cのようなプログラミング言語は、人が読み書きすることが前提となっているため、コードを読んだり書いたりすることができます。しかし機械語は0と1の羅列となっているため、読むことも書くことも人間にはほぼ不可能です。逆にコンピュータにとっては、私たち人間には厳密過ぎるぐらいに思えるCなどのプログラミング言語も、まだ曖昧で「抽象的」なのです。 元来、コンピュータは厳密な機械です。具体的で明確な指示しか受け付けません。コンピュータに指示を出すのであれば、「00番の装置の記憶している数値の内、48050番のメモリの数値を1に設定せよ」という形での指示を行う必要があります。しかし、hello,worldとディスプレイに出力するために、膨大な量の指示をすべて「00番の装置の…」と書いていたのでは、途方に暮れてしまいます。 そこで、コンピュータの世界の先人達は膨大で厳密な指示群を目的ごとにひとまとめにカプセル化して、つまり「ディスプレイにテキストを出力する」といった機能に「抽象化」することによって、様々な機能を人間にもわかりやすく使いやすくコンピュータに備えていったのです。プログラミング言語自体もそのように抽象化によってつくられた機能のうちの1つです。  人間が扱うことが比較的容易なプログラミング言語で書かれたプログラムをコンピュータに実行させるには、コンピュータが直接理解できる機械語へと変換する必要があります。 その変換の工程をコンパイルと呼びます。コンパイルの工程は緻密かつ複雑で、その作業工程はいくつかの抽象化された階層に分けることができるほどです。一般的にコンパイルはコンパイラ、バーチャルマシン、アセンブラの3つの変換器によって実現されます。 コンパイルによって、0と1の機械語に変換されたプログラムは、いよいよソフトウェアからハードウェアの領域へと到達します。  機械語は、ソフトウェアとハードウェアの境界におけるインターフェイスとなっています。 機械語において、プログラマーの抽象的思考はシリコン上で実行される物理的操作に変換されるのです。 しかし、機械語もまた抽象化されたものであり物理的には存在しません。機械語の中身は、言語規則に基づく記号の集合であり、この抽象的な形式を具現化するには、何らかのハードウェアによって実現する必要があります。 |コンピュータアーキテクチャ  ハードウェア領域の最上位の階層は、コンピュータアーキテクチャの階層です。コンピュータアーキテクチャは、ハードウェア全体の基本設計構造となります。 ビットに、つまりONとOFF(0と1)の組み合わせによる命令セットの集まりへと変換されたプログラムが実行されると、コンピュータアーキテクチャの構成要素であるCPU(中央演算装置、Central Processing Unit)とレジスタ(CPU内にある演算用の小容量の記憶装置)を用いてメモリ(記憶領域)を操作します。 そして、機械語の命令セットはメモリに格納され、コンピュータが命令を実行するたびにCPUによって読み込まれ、解読、実行されます。メモリは2つの安定状態を持つフリップフロップ回路、クロック回路などから構成されており、入力された0と1のビット情報を回路の状態として記憶します。  プログラムのコードも、データと同じように、コンピュータのメモリに格納され操作されます。これが「プログラム内蔵方式」であり、まさしく「ソフトウェア」の正体です。プログラム内蔵方式というアイデアによって、同じハードウェアであっても別のプログラムを読み込むたびに、計算機、通信、グラフィックデザイン、ワードプロセッサ、ゲームなど様々な仕事を行うことができる万能性をコンピュータは獲得しました。 数学者ジョン・フォン・ノイマンは1945年、プログラム内蔵方式のコンピュータアーキテクチャを発表した。以降、プログラム内蔵方式のコンピュータを「ノイマン型コンピュータ」と呼ぶようになり、現在ではほとんどすべてのコンピュータがノイマン型コンピュータのアーキテクチャでつくられている。ノイマン型コンピュータの理論上の原型となっているのが、数学者アラン・チューリングが1936年に考案した仮想の計算機、「チューリングマシン(万能機械、Universal Machine)」である。  上記のコンピュータアーキテクチャのモデルは「ノイマン型コンピュータ(von Neumann machine,1945)」と呼ばれ、今日のコンピュータのほとんどすべてがノイマン型コンピュータです。 ノイマン型コンピュータは、CPUを中心としてメモリを操作し、入力デバイスからデータを受け取り、出力デバイスへデータを送信します。 CPUは、コンピュータアーキテクチャの中心的存在で、その役割は、現在読み込まれているプログラムの命令を実行することにあります。CPUは、演算を行うALUと、命令コードを解読する制御ユニット、小型の記憶装置であるレジスタで構成されています。 そしてメモリは、命令コードとデータを記憶し、CPUからのアクセスを受け入れ、演算に応じて読み込み、書き換えられます。  これらCPU・レジスタ・メモリなどのハードウェア、すなわちコンピュータアーキテクチャの各構成要素も、さらに下の階層の回路集合が抽象化されることによって実装されています。 |論理回路とNANDゲート  コンピュータアーキテクチャにおけるCPU、メモリなどの各モジュールの中身は多種多様な回路が集積して構成されています。  しかし、それらの回路はすべて、たったひとつの回路、「NANDゲート」の組み合わせから作り上げることが可能なのです。 NANDゲートとは、論理ゲートと呼ばれる基本回路のうちの一つですが、いかなる組み合わせの論理回路も、NANDゲートを組み合わせることで実装することができてしまいます。  論理回路とは、二進法の1と0を、電圧の正負や高低、位相の差異、パルスなどの時間の長短など通常電気的な信号によって表現して論理演算を実装した回路のことです。(しかし論理回路を実装するにあたっては、必ずしも電気信号を用いる必要はなく、水流であったり糸と棒やバネなどでつくることもできる。水路の開閉や、バネの伸縮で二進法を表現することによって、水流式コンピュータやバネ式コンピュータなども実現可能。) 論理回路は、与えられた(1または0の)入力に対応する(1または0の)信号を出力します。 つまり、プログラミング言語によってコンピュータに入力された“ 私たちの思考 ”は、論理回路上で物理的な力へと変換されるのです。  ビットを情報量の単位として定義したクロード・シャノンは、いかに複雑な論理演算であってもONとOFFの2つの状態を切り換えられるスイッチング回路を組み合わせることによって実装できることを示し(Shannon, 1937)、コンピュータ設計技術を大きく前進させました。 シャノンは、19世紀の数学者ジョージ・ブールのブール代数をコンピュータサイエンスに応用することで、現在の形のデジタルコンピュータを実現するための基礎をつくったのです。 ジョージ・ブールによって提唱されたブール代数は、論理学における「真」と「偽」の命題論理を、論理式という数学の形式で表現することができます。シャノンらはブール代数における、ある論理集合の命題における「真(true)」と「偽(false)」の判定を、1と0のビットの演算に置き換えることによってコンピュータサイエンスに応用しました。  ブール関数の演算においては、単項演算子であるNOT(論理否定、¬A、Aではない)と二項演算子であるOR(論理和、A∨B、AまたはB)とAND(論理積、A∧B、AかつB)などの演算子を用いて様々な論理式の真偽を演算します。 NOT、OR、ANDの演算子は、現代コンピュータにおいては、トランジスタと呼ばれるスイッチ素子を特定の配線経路でつなぎ合わせた基本回路となっています。これらの基本回路は基本論理ゲートとも呼ばれ、組み合わせることによってより複雑な論理ゲート(論理回路)を実装する際の部品(ビルディング・ブロック)として使われます。  コンピュータのCPU、メモリなどすべての回路は、NOT、OR、ANDの基本回路を用いて実装することが可能です。 そしてNOT、OR、ANDの回路は、NAND(否定論理積、¬(A∧B)、「AかつB」ではない)だけを組み合わせてつくることができます。 NOT A = A NAND A A OR B = ( NOT A ) NAND ( NOT B ) = ( A NAND A ) NAND ( B NAND B ) A AND B = NOT ( A NAND B ) = ( A NAND B ) NAND ( A NAND B ) コンピュータの階層構造の最深部は、この小さなNANDゲートです。  コンピュータの階層構造はNANDゲートの組み合わせによる回路から積み上げて、コンピュータアーキテクチャを構成し、その上にいくつかの変換器とOSとプログラミング言語からなるソフトウェアを実装することによって成り立っています。コンピュータをつくりあげているのはNANDゲートと抽象化です。 たった一種類の単純な論理回路から、コンピュータをつくりあげているのは、人間だけが持つ「組み合わせによって高次のコンセプトを創り出すことができる抽象化の力」に他ならないのです。  そしてまた、哲学者アリストテレスからの論理学の系譜が数学者ジョージ・ブールを経て、情報理論のクロード・シャノンによってコンピュータの一部として取り込まれていることは、コンピュータを考える上でとても興味深いことだと思います。 |ループと再帰、そしてアルゴリズム PINK FLOYDの4thアルバム『Ummagumma』(1969)のアルバムジャケット写真。 壁にかけられた絵の中で再帰的にイメージを繰り返す手法を用いて描かれている。あたかも無限に続くかのような連続したイメージが、視覚的にサイケデリックな効果を与える。日常の光景の中に、現代的なコンセプトが垣間見れる印象的なデザインとなっている。  さて、コンピュータの階層構造の最深部まで到達したところで、表層部であるプログラミング言語の層まで戻ってきましょう。 ここまでにコンピュータの構造に少し触れることができました。それはNANDゲートという論理回路を最小の基本パーツとして、抽象化によって機能を積み上げた建築物のようなものでした。  では、果たしてコンピュータは何ができるのでしょうか?  そして、コンピュータはそれをどのように実現しているのでしょうか?  汎用コンピュータは、プログラム内蔵式のアーキテクチャのおかげで、様々な用途に合わせて使える万能性を有しています。コンピュータは理論上、CPUの速度、メモリの容量という物理的な制限はあるものの、問題を解く手順を記述できればどのような計算も解くことができます。  私たちはコンピュータをプログラムを実行させることによって動かします。プログラム次第でコンピュータは多様な仕事を行うことができます。しかし、どんなに複雑なプログラムであっても、プログラムを細かく分解してみれば、たった3つの基本制御構造の組み合わせで作られています。 <プログラムの基本制御構造> 順次: 処理を順番に実行する 分岐: 条件により処理を場合わけする 反復: 処理を繰り返し実行する  特に、コンピュータは私たち人間と比べて「反復」が圧倒的に得意です。反復、繰り返しはループ(loop)とも呼ばれ、高水準言語の多くではfor文、while文という構文が用いられます。コンピュータは与えられた仕事をひたすら何度でも正確に繰り返すことができます。  しかし、ループだけではコンピュータの特殊な能力を実現するには足りません。例えば、水車や風車などもループ処理を行っています。コンピュータがただひたすら繰り返すだけの他の機械装置と本質的に異なる能力を実現するには、繰り返し処理の方法の中でも、ハッカーたちが特別な愛着を持つプログラミング手法である「再帰(さいき、recursion)」という方法、そして考え方が必要になります。  再帰プログラムは、関数の中に同じ関数を組み込んで、元の関数の演算の中に反復的にまるで“合わせ鏡”のように同じ関数を再び呼び出します。そして、またその関数の中に同じ関数を呼び出し、またその関数の中に…といった具合に、延々と繰り返します。そして、あらかじめ定めておいた折り返し地点まで演算を進めると、再び元の関数まで戻りながら演算処理を仕上げていきます。 数式にすると次のような式 f (x) を含むプログラムが、再帰プログラムです。   x ≧ 1 のとき,    f (x) = x・ f (x - 1) ・・・①   x = 0 のとき,    f (0) = 1 ・・・②     (ただし、x ≧ 0 とする)  このように、あるものを定義をするのに、その定義の中に自らを含んでいる形式を、再帰的であると言います。 (この形式は、そのまま数学における無限の定義とも一致する。(Dedekind,1888)) 例えば、xが5のとき、f(5)の解を求めるには①式からf(x - 1)、つまりf(4)を求める必要があります。しかし、f(4)の解はまだ不明なため、①式に再び4を代入すると、さらにf(3)を求める必要があります。同様にf(3)からf(2)、f(1)と降りていき、折り返し地点であるf(0)まで到達すると②式よりf(0)は1となり、そのまま一挙にf(1)、f(2)…f(4)、f(5)の解が明らかになります。 xに代入する数は、どんなに大きくても構いません。どんなに大きい数であったとしても試行を重ねf(0)にたどりついて、また再びもとのところまで戻っていきます。  つまり再帰式はあらゆる特殊なケースを、ひとつのやり方を繰り返し適用することによって、一般化しているのです。これは帰納や数学的帰納法、連続や無限に対処するために数学者たちが用いる考え方と本質的に同様の方法です。  ループプログラムは一方向に直線的な繰り返しを、再帰プログラムは循環するサイクル運動を実行、出力します。  「ループと再帰」がコンピュータにもたらす特別な能力は、処理を自律的に制御して自動化する能力です。この能力は、ある出力に対して得られた結果(入力)をもとに、さらに自己調整を行い新たな出力を返す、という再帰的処理、つまりフィードバックによってもたらされる能力です。人によってはその能力や実行プロセスのことを「知能」とか「思考」と呼ぶこともあります。  そして「ループと再帰」は、同じ処理を何度も繰り返すので、そこで生成される構造や表現は対称性(シンメトリー)を有することになります。対称性は美術、音楽、建築などでも多用され、美しさを印象づけるのに効果的な要素だと言われています。雪の結晶や植物の葉脈の模様のような、全体から部分構造への再帰的な繰り返しによって生み出される対称性は、自然の秩序の中にも多くみられ、フラクタル構造として芸術的にも理論的にも注目されています。対称性は、普遍的真理が兼ね備えている「簡潔さ」や「美しさ」に到達する方法の、重要な要素のひとつだと考えられているのです。  プログラマたちはループや再帰などの制御構文、そのほか多種多様の関数を用いて、目的に応じて問題を解くための手順、算法をプログラミングしてコンピュータに内蔵します。  問題を解くための手順、算法を「アルゴリズム(algorithm)」と言います。 アルゴリズムはコンピュータが情報を処理するための指針となります。アルゴリズムがコンピュータが特定の仕事を行うためのステップを指示しているのです。  そして演算処理の対象となる情報、データをコンピュータで効率的に扱うために、どのように系統立てて格納するか、それぞれの「データ構造(data structure)」を設計し、整理します。代表的なデータ構造には、リスト、木、スタック、キュー、グラフなどがあります。  データ構造の中には再帰的な構造というものもあります。再帰的なデータ構造とは、あるデータの構造の中に、同様の構造を持つデータが含まれている構造のことです。再帰的データ構造の具体例には、ファイルシステムの木構造(tree structure,木が幹から枝葉に分かれていくような構造。データファイルの中にいくつかのファイルがあり、そのファイルの中にもまたさらにいくつかのファイルがあるというような、お馴染みの構造)などがあります。再帰的データ構造を持つデータの処理には、再帰的なアルゴリズムが有効なケースが多いでしょう。  人間の使う自然言語も再帰的な木構造となっていて、自然言語を表現したり、解析するためには再帰的なプロセスが欠かせません。高水準プログラミング言語(CやJavaなど)を機械語にコンパイルする際の構文解析にも再帰的処理が欠かせません。  再帰的構造は数学や自然科学上も深淵な意味を持っており、自然現象から再帰的構造を見出すことが多くの科学的成果の土台になっています。  プログラマは、まずどのように情報を扱うのかデータ構造を決め、そのデータ構造に応じてアルゴリズムを書き、データを目的に応じて有用な形に変換します。  このような、データ構造とアルゴリズムの組み合わせのことを「プログラム(program)」と呼びます。 迷路のデータを指定すると、アルゴリズムが入口から1マスずつ進みながら、再帰的に次に進める方向を条件判定し、出口までの道筋を探索するプログラムの実行プロセスを図示したもの。ソースコードは、迷路のデータ部分を含めてわずか32行のシンプルなプログラムだが、当然、迷路の形が変わっても、サイズが大きくなっても、アルゴリズムは同じように迷路を探索し、入口から出口までの道筋を出力する。ただし、出口に辿り着けない迷路であればエラー出力する。  ハッカーたちは、美しくシンプルなアルゴリズムを書くことを尊び、素晴らしいプログラムによってコンピュータを効果的に動かすことが彼らの目的であり使命だと考えています。そして、ハッカーたちの書くアルゴリズム、そしてプログラムは核心的で無駄がなく、時に芸術性を帯びていることすらあります。 <よいアルゴリズムの要件> 1.信頼性が高いこと   精度のよい、正しい結果が得られなければならない。 2.処理効率がよいこと   計算回数が少なくて済み、処理スピードが速くなければならない。 3.一般性があること   特定の状況だけに通用するのではなく、多くの状況においても通用しなければならない。 4.拡張性があること   仕様変更に対し簡単に修正が行えなければならない。 5.わかりやすいこと   誰が見てもわかりやすくなければならない。わかりにくいアルゴリズムはプログラムの保守(メンテナンス)性を阻害する。 6.移植性(Portability:ポータビリティ)が高いこと   有用なプログラムは他機種でも使用される可能性が高い。このため、プログラムの移植性を高めておかなければならない。 (河西朝雄、『C言語によるはじめてのアルゴリズム入門』、技術評論社、1992、2017)  ハッカーたちは今も、人間独自の「抽象化」という思考方法を用いて、アルゴリズムとデータ構造からつくった小さなプログラムを組み合わせることによって、現実世界の課題を解決するアプリケーションを、コンピュータの階層構造のプログラミング言語層のさらに上に積み重ねていき、動かしています。そしてそれらのアプリケーションは、ループや再帰プログラムによって与えられた「自律性」を備えています。コンピュータがはじめて実現した「自律的に思考する機械」は、いままで人類が利用してきた道具や機械とは全く性質、次元が異なるものです。 そしていま、ハッカーたちが創り出す新たなアプリケーション、そしてシステムが《ニューエコノミー》と呼ばれる新しい産業構造を形成しつつあります。 >続きを読む

  • 撤退と再配置のマネジメント

    世界がコロナ禍に見舞われたことによって、再び明らかになった重大な事実があります。 それは、「未来は不確実で、私たちには予測ができない領域がある」ということです。 コロナ禍は、私たち人間が全てを予測し、コントロールできるという傲慢な考え方に警笛を鳴らしました。 そして、事前に予測することができない事態は、年々その頻度が高まってきているように見えます。  当然ながら企業経営にも、予測不能な事態がありうるという気づきは重要な変化をもたらします。 私たちは不確実性を念頭に企業経営を行っていく必要があります。 もう、「想定外」という言葉は、免罪符ではなくなったのです。  予測不能な事態が、いつでも起こりうることを私たちは想定しておく必要があります。 ありえないと考えられていた事が、いつでも起こるのです。そして、それは考えている以上に頻繁に起こり、私たちに大きな影響を与え、未来の方向性を決定していきます。  確実で安定した、長いあいだ変わらない“ 確かなもの ”が失われてしまった現代社会を社会学者のジグムント・バウマンは「液状化した現代世界(The Liquid Modern World)」と呼びました。あらゆる液体同様に長時間一定の形のままでいることはできず、すべてのものが不断に変わり続ける世界です。 この液状化した世界において有効なマネジメント方法として、 「撤退と再配置のマネジメント」を紹介します。  しかし「撤退と再配置のマネジメント」は、決して新しい経営手法ではありません。 むしろ、企業本来の姿に立ち返る「原点回帰」だと言えるでしょう。 |撤退宣言   撤退を認めよう。 そして撤退という言葉につきまとう後ろ向きなイメージを振り払おう。   撤退こそが、新たな環境や状況に適応するための第一歩となる。 そして撤退という選択肢を保持することが、私たちに「しなやかさ」をもたらす。   あらかじめ撤退の可能性を認めて、事業状況を広く情報開示して、事業を前向きな批判にさらそう。そして自由な議論を奨励しよう。 (議論にタブーや絶対的聖域は禁物だ。そこに思わぬ落とし穴ができる。誰もが間違う可能性があるからこそ、広く自由な議論を行うことで致命的失敗を回避しよう。)   惰性こそが最大の敵だ。 もし、前提となる仮説が見込み違いであると分かったなら、素早く撤退しよう。 そして再び引き上げた資源をすぐに前線に配備して次の取り組みを試してみよう。 撤退と再配備(Withdrawal & Redeployment)に習熟しよう。   大きな成果を実らせるのは全体のごく一部の取り組みであることをしっかりと認識して、広くアンテナを張り、可能性の見込める分野に素早く軽やかに進出しよう。 安易な追随は避け、自ら考えた新しい仮説を検証するために新領域への航海にでよう。 いまは小さくても構わない。大きく伸びると考えられる市場の探索に出かけよう。その行程では、大きく成長できる学習機会に貪欲になろう。 そして、運命をつかみ取るのだ。    撤退と再配置のマネジメントに際して、忘れてはならないことは、まずなによりも致命的な失敗を避けることです。そして行き詰まりを回避することです。 それはつまり、リスクと不確実性に対処すること、と言い換えることもできます。  人は誰も100%誤りのない決定を下すことはできません。 また、かつては正しいとされていた対応も、時を経て環境が変わり、正しくない対応、ふさわしくない対応となってしまうこともあります。 将来のことについて、“ 誤ることのない確実なこと ”という発想自体が、そもそも間違っているのです。 そのため、私たちはなにか決定を行う際には、誤りが存在する可能性を認めて、それに備えておく必要があります。 そしてそのことが、次なる道につながる礎となります。  企業は元々、大洋を航海する貿易船への投資と分配を起源としています。 企業は、長い航海という何が起こるかわからない取り組みや、いままで試されたことのない新しい生産方法を試みる際に生じる、不確実性に対処するための機関、仕組だということを、再び思い出しましょう。  撤退の決断こそが、全ての始まりとなりうるのです。  撤退の戦略的決断は、リーダーの最も重要な仕事です。 むしろ撤退はリーダーにしか下せない決定であることが多いでしょう。 そして撤退によって生まれた余剰リソースを新たな機会に再配置することが、いまリーダーに求められています。 |リスク、不確実性、フレキシビリティ  「撤退と再配置のマネジメント」の重要性が高まるのは、特に不確実性が高く流動性の大きい環境下で組織運営を行う必要がある時です。  本稿の主題は、企業運営に不可欠な「撤退と再配置の運用方法と戦略的決断に必要となる考え方」を示すことです。しかしそのために、しばらく主題から離れて、先に議論の前提となる「危機」、「リスク・不確実性」、そして「フレキシビリティ(柔軟性)」についての考察から始めましょう。  私たちは常に危機にさらされている  危機。  危機という言葉は、漢字で書くとニ文字で成り立っています。 「危」、つまり危険と、 「機」、すなわち機会。  英語の「crisis」は、ギリシア語の「krisis」が語源です。 「krisis」には決定、選別、転換点、分岐点といった意味があります。  危険でもあり、チャンスもある。どう転がるか分からない偶然的要素や、極端な変化、そこからの選択と選別という意味が危機という言葉には含まれているようです。  現実世界における「危機」も偶発的に、突如訪れます。 そして危機に直面した集団は、その対応の良し悪し次第で、 劇的破綻を迎えるグループと、 緩やかな衰退を受け入れるグループ、 機を捉えて大きく伸びるグループに分かれます。 勃興する地域と、衰退していく地域。 急成長を遂げる新興企業と、停滞もしくは没落する旧企業。 磐石な基盤を築く者と、足元から崩れていく者…。  危機は私たちに、従来のやり方からの転換を突きつけ、どちらに進むのか(それとも進まないのか?)選択を迫ります。  そして、今まさに私たちは「危機」の真っ只中にいます。しかし思い返してみれば、私たちはいつも突然の危機に見舞われていないでしょうか? 2020年〜 新型コロナのパンデミック 2011年 311東北大震災 2010年 欧州債務危機 2008年 リーマンショック (2007年 iPhone発売) 2001年 911アメリカ同時多発テロ 2001年 インターネットバブル崩壊 1998年 LTCMショック 1998年 ロシア金融危機 1997年 アジア通貨危機 (1995年 Windows95発売) 1992年 英ポンド危機 1991年 ソビエト連邦の崩壊 1991年 日本のバブル崩壊 1987年 ブラックマンデー 1979年 第2次オイルショック (1977年 AppleⅡ発売) 1973年 第1次オイルショック  100年に一度、想定外、未曾有、異常などの形容詞が危機にはつけられますが、実際には3,4年〜10年おきに予想外の大きな危機的状況が訪れています。平穏安定しているとは、とても言い難いのではないでしょうか。  危機の発生や、それによってもたらさられた影響や変化の範囲や大きさは、私たちの常識的な予測を超えていたのではないでしょうか? (しかし、起きてしまえば、それは「必然だった」と“ 後付けで ”言われることが多い) WindowsやiPhoneの登場も、私たちに大きな便益をもたらし、また大きなビジネスチャンスであった一方で、IBMやNEC、ソニーなどの以前の王者の凋落をもたらし、以後の私たちのビジネス環境もすっかり変えてしまいました。  このようなグローバルで大局的な危機だけでなく、私たちは事故やトラブル、取引先の破綻、風評被害、政治・経済・社会・技術などの変化変容から、自然災害や競争環境の急変化など、突発的に現れる個別のアクシデントにも対処していく必要があります。  私たちは、大小様々な危機や危険と常に隣り合わせにあるのです。  「撤退と再配置のマネジメント」は、このような危機や危険に対処するための考え方であり、危機や危険によって及ぼされる影響や変化の力を逆手にとって活かすための方法でもあります。  頻発する多種多様の危機に備えて対応していくにあたって、まず私たちは「危機や危険それ自体」の性質が一体どのようなものなのか理解しておく必要があるでしょう。  そして、危機の性質を知れば、あなたは「危機が頻発する」のは偶然ではなく、起こるべくして起きているということも知ることになるでしょう。  さらには、危機による変化の力を、逆に活用して飛躍していくための道筋も、後半で示したいと思います。 (…とは言え、危機はその発生を事前に予測することは決してできない。ただそれは前触れなく突然起こる…)  リスクと不確実性の違い   「何かが起こらなかったという報告は、いつ聞いても興味深い。ご存じの通り、まず自分が知っていると知っている「既知の既知」(known knowns)がある。そして次に、知らないと知っている「既知の未知」(known unknowns)がある。しかしそれに加えて、知らないことも知らない「未知の未知」(unknown unknowns)というものがある」   "Reports that say something hasn't happened are always interesting to me, because as we know, there are known knowns; there are things we know we know. We also know there are known unknowns; that is to say we know there are some things we do not know. But there are also unknown unknowns – the ones we don't know we don't know."   ― ドナルド・ラムズフェルド アメリカ国防長官(当時), 2002年2月記者会見で、イラクの大量破壊兵器の存在について証拠がないことを問われての回答、一部抜粋    危機や危険は、突然に起こります。 私たちがそれらが起こることを事前に十分に知っていれば、あらかじめ準備したり対策を練ることができるので、それは危機や危険であるとは言えません。普通の大人であれば、熱いヤカンを危険なものだとは考えないはずです。  つまり危機や危険は、常にある程度の不確かさを備えているものと考えることができます。  そして、その「不確かさ」のことを、 私たちは一般的に「リスク(risk)」とか「不確実性(uncertainty)」という用語を使って表現します。 喫煙は死亡リスクを高める、とか 世界経済は不確実性が高い状態にある、 などといった使われ方をします。  リスクや不確実性という言葉が普段使われる時、 これらの言葉はしばしば混同されて漠然と用いられています。 しかし、危機や危険に適切に対処するためには、まず私たちはリスクと不確実性の違いを理解しておく必要があります。 リスクと不確実性の違いは、次の通りです。 リスク とは・・・・ 好ましくない結果を得る可能性、望ましくない事象が起こる可能性を、 “ 確率 ”で表すことができる場合。 (好ましい結果、望ましい事象が起こる“ 確率 ”を示せるものも同時に意味する)  →数値化できる  →計算できる  →統計・確率で予測可能 不確実性 とは・・・ 未知のレベルが高く、何が起こるか “ 確率 ”によって表すことができない場合。 (つまり、発生確率すら想定できない出来事。あるいは、確率で表せない“ 予測不能性 ”それ自体。)  →数値化できない  →計算できない  →統計・確率で予測不可能  この定義は、20世紀初期の経済学者フランク・ナイトによって与えられ、「ナイトの不確実性」と呼ばれています。  「リスク」は、いままでの経験をもとに、発生確率38%とか成功確率97.25%などと、(その後の結果を決定的に断言はできないとしても、)確率という数値で予測できます。たとえばサイコロの目は振ってみるまで何が出るかわかりませんが、「六分の一の確率で1の目が出る」という時、これはリスクについて述べていることになります。  「不確実性」は、いままで全く経験がない事態であったり、まったく予想外の外部からの影響や変化が原因となっていたり、あるいはあまりに多くの要素が複雑に絡み合っているために、原因と結果の因果関係を確率的に(つまり数値化して)予測することができない現象です。かつて前例のない新たな取り組みが成功するかどうかとか、災害発生時の影響や、紛争の趨勢などについて私たちが考える時に、考慮しなくてはならないのはリスクではなく不確実性なのです。  ナイトと同じく20世紀初期の哲学者、論理学者、数学者のバートランド・ラッセルは、リスクと不確実性の違いについて、鶏の比喩を用いて、その本質を述べています。   『ラッセルの鶏の寓話』    ある鶏は、飼い主に毎日エサをもらっている。 エサをもらうたびに、鶏はその親切な人間に対する信頼を持つようになり、明日も明後日もその次の日もエサをくれるだろうという確信を深めていく。 その確信は、鶏の中では、日々の一般法則にまで高められていくことだろう。 他の鶏も一緒に育てられているため、その鶏が実際にありつけるエサの量には若干の多い少ないという“ばらつき”がある。 この“ばらつき”が、鶏にとっては「リスク」である。  しかし、鶏の命運を決めるのは、日々ありつけるエサの寡多ではない。 鶏にとっての危機は、飼い主からエサをもらい続けて100日ほど過ぎたある日、鶏の期待を裏切って突然に訪れる。 毎日エサを与えてくれた親切な飼い主は、ある日突然に鶏を飼育場から出し、躊躇なく鶏を絞めてしまう。 この鶏にとって、最後の日に起きたことが「不確実性」であったのだ。    不確実性は突然に訪れます。しかも日々の単調な繰り返しを経て、リスクコントロールにも慣れて安心感が最も高まったときに突然やってきます。 また、不確実性は過去のデータや経験に全く関係なく突然現れ、従来の予測の範囲を超えた大きな変化を私たちにもたらします。  経営のリスクと不確実性  では、リスクと不確実性について企業経営の視点から考えてみましょう。 上のグラフの《青線》は、企業の株価の推移を表しています。 グラフの《赤線》は、この企業の株価から“ 誤差 ”ともいえる上下変動の影響を取り除いた中長期での“ 傾向 ”を表した回帰直線です。  一般的に、株価に限らず物事の動きというのは、二つの部分に分解することができます。 株価の値動きは、 規則的に一定方向に動いて、人が予測できる“ 傾向(=トレンド) ”の部分と、 ±どちらの方向にもランダムに動いて、確率に委ねるしかない“ 誤差・ばらつき・ぶれ・揺らぎ(=ボラティリティ) ”の部分に分解することができます。  株式投資を行う際には、この“ 誤差 ”の部分を、各株式固有の上下に変動する値の振れ幅として扱い、「ボラティリティ」と言います。そして、このボラティリティを推定可能な「リスク」として扱います。  「ボラティリティ」は、株価が上下にランダムに動く変動範囲を示しています。ランダムな動きは、個々の動きを正確に予測することはできません。しかし事例を多く集めてみると、平均の値と一定の振れ幅を持っているため、一定の範囲内であれば“ 確率的に ”推測することができるとされています。  このランダムな上下運動を、金融の世界では古くから「ランダムウォーク」と呼んでいます。酔っ払いがフラフラと歩いては眠りにつき、目覚めるとまたフラフラと歩き出す様子にちなんでこのように呼ばれています。  物理学においては、液体中の粒子の動きや空気中の分子などがランダムにジグザグに揺らぐ不規則な動きのことを「ブラウン運動」といいます。数学では、この運動を「ウィーナー過程」として厳密に定義しています。上記の数式、右辺の第二項のWは、このランダムな運動を変数にしたもので、ウィーナーの頭文字を取って一般的にWとされています(ブラウン運動の頭文字からBとされることもあります)。  酔っ払いや液体中の粒子が、あっちへこっちへとフラフラと移動はするものの、外部から何も力を加えなければ、突如遠く離れたところまで移動することがないように、ボラティリティそしてリスクは一定の範囲内に“ 確率的に ”収まっている(はずだ)と仮定されています。  投資の専門家も、主にこの仮定に沿って、ポートフォリオのリスク管理を行なっています。  一方で、この誤差やばらつきなどのボラティリティ部分を取り除いた部分が、株価の中期的な値動きの“ 傾向 ”、つまり「トレンド」です。  「トレンド」は株式やその企業の業績の見通しの、より本質的な実力を示していると言えるでしょう。順当な推移予測とも言えます。大げさに表現すれば、トレンドには固有の法則性が認められると言うこともできるかもしれません。  投資や金融の専門家は、「トレンド(=中長期での傾向)」と「ボラティリティ(=一時的な誤差・値のばらつきの範囲)」を把握して、いまある危険を数値化することで適切にリスク管理していれば、時には多少の損をすることはあるにしても、過去のデータの集積を元にして様々な投資手法やコンピュータを用いた金融工学などを駆使しながら、中長期的にコツコツと利益を積み上げていくことができると考えています。  実際に機関投資家やヘッジファンドは、株式や債券、デリバティブ証券を組み合わせることによってリスクを回避、もしくは中和、あるいは分散し、リスクをコントロールしようとします。  しかし、ではなぜ、あれほどまでに栄華を極めた投資会社リーマンブラザーズが突如破綻に追い込まれたのでしょうか?(Lehman Brothers Holdings Inc.、2008年9月破綻)  なぜ金融理論の大家たちが英知を集めて組成したファンドが、運用開始からわずか数年で早々に派手なクラッシュを迎えたのでしょうか?(Long-Term Capital Management、略称:LTCM、1998年9月破綻)  たびたび起こる巨大なバブルの発生と崩壊を、なぜ私たちは全く予測できないのでしょうか?  そしてなぜ、私たちはいつも危機に直面しているのでしょうか?  それこそが、まさに「不確実性」がもたらす帰結なのです。 上記のケースでは、「リスク」には対処していたかもしれませんが、「不確実性」を見落としてしまっていたのです。  不確実性には、大きく分けて「二つの種類」の不確実性があります。  まず、不確実性にはシステムの《外側》から、システムのあり様を根幹から変えてしまうタイプのものがあります。 つまり、あるシステム(市場を構成する企業、顧客、競合、供給企業などのネットワークから成り立つシステム)が外的要因(たとえば戦争、自然災害、事件、技術革新、法改正、金利の変更、ニュース、資源や原料価格の騰落など)によって大きな影響を受け、そのシステムの元々の前提条件が変わってしまい、中長期的なトレンドの方向そのものが大きく変わるといったものです。この不確実性はシステムの外部で引き起こされるため、システムの内部からは予測することができません。  もう一つの不確実性はシステムの《内的な要因》によるものです。 小さな誤差や揺らぎに過ぎなかった些細な事やちょっとしたエラーが、ネットワーク上の相互作用の反復によって自己増幅的に拡大し、臨界点を超えると連鎖的に雪崩を引き起こし、最終的にはシステムの崩壊をもたらすほど大きな影響を及ぼしてしまう、といったものです。初期条件のわずかな違いが結果に大きな違いをもたらすため、私たちには初期の微小の差異を見分けることができず、このタイプの不確実性も発生を事前に予測することはできません。  不確実性は、《外側》からの不確実性であれ、《内的な要因》による不確実性であれ、発生を事前に予測することはできず、発生の影響規模は事前に想定していた規模よりも遥かに大きく、甚大なものとなります。  そしてまた、不確実性の発生頻度は、リスクコントロールや金融工学の理論的支柱である確率・統計理論の「平均」や「標準偏差」あるいは「正規分布」という概念を当てはめて考えることができません。不確実性の発生をあえて確率的に言えば、それは“ いつでも起こりうる ”のです。  不確実性は発生メカニズム上、規模も頻度についても「平均の値」を持たず、当然、偏差の統計的意味もなく、ばらつき具合の参照基準となる確率分布と照らし合わせることもできません。不確実性には、私たちが普通に考える“ 平均的な大きさ ”や、“ 平均的な発生頻度 ”といったものがありません。だからこそ、平均という物事の見方や感覚が染みついている私たちは、不確実性が現実のものとなったとき「ありえない…とんでもない大事件が起きたぞ…。」と感じるのです。  そもそも不確実性は、リスクのように確率的に計算することも、予測することも、コントロールすることもできない性質のものなのです。  不確実性が現実となった場合、株価は次のグラフのように大きく変動します。  不確実性が現実となった時、つまり危機が発生した時には、株価の一時的な上下変動部分(つまりボラティリティ部分)ではなく、まるで地殻変動が起きたかのように、株価の基盤となっているトレンドそのものが大きく変わってしまいます。売りが売りを呼び、それによって引き起こされる信用不安も相まって、トレンドの方向や流れは、従来のパターンとは大きくかけ離れたものとなります。そして、変わってしまった流れが元に戻ることはありません。  つまり、予測がある程度できると考えられていたトレンドが、一旦リセットされて大きく変わってしまうのです。  参照 > IG Group, “ 株価大暴落はいつ起こったのか ― 暴落の歴史や原因を解説 ”, IG証券  企業の命運が決まるのは、ラッセルの鶏と同様に、このような不確実性に直面した時です。不確実性の影響をマイナス向きにまともに受ければ、企業は致命的な損失を受けて存続することすら危うくなります。  逆に、不確実性の影響をプラス向きに追い風として捕捉することができれば、企業は大きく成長していくことができます。  そして、これこそが運命の分かれ道となる「危機の本質」なのです。  企業を成功に導くのは、誤差・ばらつき・ぶれ・揺らぎを含む微細な変化を正確に予測することではなく、大きな変化をもたらす“ 予想外 ”のデキゴトにいかに上手く対処するかということです。 “ 予想外 ”のデキゴトに上手く対応するとは、決して不確実性を取り除いたり、リスクをひたすら抑制することではありません。ご存知の通り、リスクがないところにはチャンスもないのです。不確実性を請け負うことが利潤の源泉なのです。そもそもリスクや不確実性を取り除くことはできません。  大切なことは、不確実性の存在を前提とした上で“ 備える ”ことです。致命的な失敗を回避しつつも、短期的な結果に振り回されずに小さな失敗を積み重ねながら学習し、ときおり訪れる大きなチャンスをしっかり掴むことが、長期的な成功のために必要となります。 〜つづく (続きの予告) |リスク、不確実性、フレキシビリティ  柔よく剛を制す(もしくは「万物は流転する」)  ローレンツのバタフライ効果 |撤退と再配置のマネジメントの意義  初期戦略と最終戦略  仮説的戦略  可能な戦略  実現された戦略  意図せざる戦略  分岐する戦略  分離するリソース  転換する組織  経路依存性  仮想的ダイナミック・ケイパビリティと戦略空間  確率概念  帰納的方法(「結果」から「原因」を探る)  更新される仮説  フィードバックループを回す |撤退と再配置のマネジメントの実践  中核価値と存在意義を明確にする  仮説志向型アプローチ  リアルオプション  リーン&スケール  社内政治を抑え込む  2wayマネジメント  目標設定と期待値  2levelsアップ(目的・理由・方法)  限界を認識する  経験からの学習とアンラーニング  リストラクチャリング  危機感が感度を上げる |撤退と再配置の事例  富士フイルムホールディングス  インテル  アップル  シスコシステムズ  ソフトバンク  イノベーターのジレンマ  日本電産のダブル・プロフィット・レイシオ(WPR)  Googleの中国市場撤退 |確率分布、非線形、カオス、複雑系、フラクタル  「正規分布」と「べき乗分布」  相転移  偏在するカオス  自己組織化臨界現象  スケールフリー ブックガイド: 『リスク、不確実性、利潤』 Risk, Uncertainty and Profit フランク・H・ナイト 1921 『確率論』 A Treatise on Probability ジョン・メイナード・ケインズ 1921 『科学と仮説』 La Science et l'Hypothèse アンリ・ポアンカレ 1902 『偶然性の問題』 九鬼周造 1935 『確率の哲学的試論』 Essai philosophique sur les probabilités ピエール=シモン・ラプラス 1814 『確率論』 伊藤清 1953 『オプションおよび企業負債の価格付け』 The Pricing of Options and Corporate Liabilities フィッシャー・ブラック、マイロン・ショールズ 1973 『カオスのエッセンス』 The Essence of Chaos エドワード・ローレンツ 1993 『禁断の市場』 The (Mis)Behavior of Markets ブノワ・マンデルブロ 2004 『ブラック・スワン』 The Black Swan ナシーム・ニコラス・タレブ 2007 『不確実性超入門』 田渕直也 2016 『確率の出現』 The Emergence of Probability イアン・ハッキング 1975 『統計学を哲学する』 大塚淳 2020 『意思決定と合理性』 Reason in Human Affairs ハーバート・A・サイモン 1983 『合理的選択』 Rational Choice イツァーク・ギルボア 2010 『資本主義、社会主義、民主主義』 Capitalism, Socialism and Democracy ヨーゼフ・シュンペーター 1942 『インテル戦略転換』 Only the Paranoid Survive アンドリュー・S・グローブ 1996 『イノベーションのジレンマ』 The Innovator's Dilemma クレイトン・M・クリステンセン 1997 『競争優位の終焉』 The End of Competitive Advantage リタ・G・マグレイス 2013 『リアル・オプション』 Real Options トム・コープランド 2001 『専門職的実施の国際フレームワーク』 International Professional Practices Framework 内部監査人協会(IIA) 2009 『失敗の本質』 戸部良一・寺本義也・野中郁次郎ほか 1984 『知的機動力の本質』 野中郁次郎・戸部良一ほか 2014 『孫子』 孫子兵法 孫武 紀元前5世紀頃 『老子』 道徳経 老子 紀元前4世紀頃 『真説 孫子』 The Art of War デレク・ユアン 2002 『遊撃戦論』 On Guerrilla Warfare 毛沢東 1937 『暗黙知の次元』 The Tacit Dimension マイケル・ポランニー 1966 『危機と人類』 Upheaval ジャレド・ダイアモンド 2019 『事件!』 Event スラヴォイ・ジジェク 2014

  • 投資会社はどのように買収した企業の価値を高めるのか

    |プライベート・エクイティ・ファンドとは何か?  投資会社の中でも、特に本稿で説明するプライベート・エクイティ・ファンドは日本ではまだ新しいマネジメントサービスの形態です。  プライベート・エクイティ・ファンドは、いわゆる「ファンド」のなかでは少し特殊な存在です。  「ファンド」とは投資家から資金を集めて、その資金で企業や債券に投資を行いリターンを得ることで、投資家にリターンを還元する組織、仕組みです。ファンドの中でも日本で一番馴染みのある形態は「投資信託」でしょう。投資信託は厳格なルールに基づいて、株式公開企業、債券、不動産証券など市場で短期での売買が成立する流動性の高い投資先に投資を行っています。金融工学を用いた分散投資によるリスクコントロールが特徴です。  一方、プライベート・エクイティ・ファンドは、投資家から集めた資金を“非上場企業”に投資を行い、投資対象企業の「本質的な企業価値の向上」を経営にも関与することで達成し、その結果得られるキャピタルゲインを投資家に還元するサービス会社です。通常、投資期間は3〜8年の長期保有が前提となります。また、経営の改善に自ら積極的に関与するために株式の過半数~100%を取得することが特徴です。  ベンチャーキャピタルも、同様に非上場企業に対する投資を行いますが、主に創業期、成長期の企業に対してのマイノリティ投資(少数株主として出資)が中心となります。ベンチャーキャピタルもプライベート・エクイティ・ファンドの一形態ですが、ベンチャーの進取性という特性から創業者が株式の過半数以上を持ち、ベンチャーキャピタルの保有株は10%~20%程度にとどまります。経営への関与は、創業者のサポートとしての色合いが強いことが特徴といえます。  プライベート・エクイティ・ファンドは、現在の日本においても形骸化するメインバンクシステムに代わって企業への資金供給の担い手となり、業界構造の再構築、企業風土の変革、成熟企業のさらなる飛躍、コーポレートガバナンスの強化、事業承継における中継機能としての役割がより一層期待されてきています。  しかしまだ日本のマスメディアでは、プライベート・エクイティ・ファンドは金融工学を駆使するヘッジファンドや、声高に株主還元を迫るアクティビスト・ファンド(いわゆる物言う株主)などと十把一からげに「ファンド」として扱われているため、誤解も多いのが実状です。そして、まだ日本においてはプライベート・エクイティ・ファンドは、特殊なサービス形態であるため、具体的にどのような活動を行っているのか一般的には認知されていません。  そこで、本稿では多くの一般事業会社が抱えている課題と、プライベート・エクイティ・ファンドがどのように企業経営に関わり、本質的な企業価値を高めていくのかについて説明します。  企業の価値を高めることによって収益をあげているプライベート・エクイティ・ファンドの方法論は、一般の事業会社のトップマネジントチームにとっても得られるものの大きい考え方となるでしょう。 |事業会社が陥る「三つの罠」  プライベート・エクイティ・ファンドの取り組みは、とてもシンプルな一つの目的の達成を目指しています。 それは「企業をより価値あるものにする」ことです。 「企業の価値を高めようとすることは当然のことではないか」と言われるかもしれません。 しかし、実際にこの目的に対して徹底的に取り組んでいる企業は、まだまだ少ないと私たちは実感しています。  では、なぜ企業はわかりきったシンプルな目的に対して徹底的に取り組むことができないのでしょうか?  そこには、一般事業会社が陥りやすい「三つの罠(わな)」の存在があります。 ・保守主義の罠  企業は「企業の価値をより高める」という目的に向けて動きだすと、多くの企業は根本的な変革の必要性に迫られることになります。変革は組織に実際の、もしくは想像上のリスクをもたらします。一時的に収益が悪化することもあるかもしれません。 そのため企業の経営者も「最高」を目指すより「無難な業績目標」を目指すほうが取り組みやすいため、現状維持路線に甘んじて変化を嫌います。変革にともなう組織の摩擦や葛藤をコントロールすることは大変な労力をともなうからです。  しかし、この「保守主義」こそが企業の変革、価値向上にとって最大の障害であると言えるでしょう。社内からの昇進によって経営者が選ばれることの多い日本企業では、特にこの保守主義の罠に陥っている傾向が強いといえます。 ・近視眼の罠  企業は業績を1年毎の決算、もしくは上場企業であれば3か月ごとの四半期決算の業績で判断されています。企業の経営者であれば株主、金融機関から、事業部門長であれば社内の人事考課として、3か月〜1年の短期の業績によって貢献を判断されていることになります。  この近視眼的な業績評価によって、長期でみると有益な投資であったとしても、短期でみればコストが積み上がるなどの理由から、投資に踏み切れずみすみす将来的にキャッシュフローの増加、成長をもたらす事業機会まで見送ってしまっていることが多々あります。あるいは、過剰なコスト削減によって短期的な利益を追い求め、将来の収益を犠牲にしているケースも多くあります。近年多くみられる大企業の不正会計も近視眼が原因です。 ・業務改善の罠  かつては、不況時は収益改善のために業務改善に努め、根本的に事業のやり方を見直すのは好況時に限って行う、という企業が多かったのですが、近年さまざまな産業において抱えている課題が好況不況に連動した周期的なサイクルではなく、構造的かつ永続的なものとなってきているため、業績向上のやり方そのものを抜本的に変革していく必要があります。  業務改善に過度に依存していると、結局、縮小均衡に陥り、変革に必要な投資を怠ったことによって、長期的にみると高コスト構造になってしまい競争力を失ってしまうということにもなりかねません。業務改善の強さは「カイゼン」として、かつて日本企業のお家芸でした。しかし、その強みへの過信がイノベーションの出遅れを招き、90年代、00年代の日本企業の停滞につながってしまいました。業務改善という現在の延長線上にある取り組みだけでは、現在の市場環境の中で、企業が根本的に抱える課題に対応していくことはできないのです。  これらの多くの企業が陥ってしまっている慢性的な課題に対処していくために、プライベート・エクイティ・ファンドの企業変革の手法は、企業全体の価値・業績向上に向けた取り組みとして、事業会社の経営にあたっても重要な教訓が含まれています。 |プライベート・エクイティ・ファンドの企業価値創造プロセス  プライベート・エクイティ・ファンド(以下 PEファンド)は、おおよそ以下のプロセスで投資先企業を選定し、キャッシュフローの増大によって企業価値を高め、売却(EXIT エグジット)し、譲渡益を得ます。  かつて、80年代、90年代のPEファンドの黎明期においては、PEファンドの利益のあげ方は現在に比べるとシンプルなものでした。投資対象企業の買収にあたり、買収金額の90%にも及ぶ負債を対象企業自体に負わせるレバレッジド・バイアウト(LBO、Leveraged Buyout)と呼ばれるスキームを用いることによって、ごく小さな自己資本で対象企業の買収を行い、やがて投資先企業が事業から生まれるキャッシュフローによって負債を返済すると、好況に乗じて高い価格で売却されました。少ない自己資本での買収、高い債務比率(レバレッジ)、売却時の好況に乗っかった高い株価倍率の組み合わせによって、PEファンドはいわば錬金術のごとく巨額の収益を生みだしていました。  しかし、いまではPEファンドも増え、競争も激化していることから投資対象企業を資産の潜在価値より低く買うことは難しくなりました。買収後に企業価値を高めていくためのしっかりした計画がなければ、投資に見合ったキャピタルゲインを得ることは難しい環境になってきています。  現在、PEファンドの多くは、金融工学的に価値を生みだすことよりも、企業価値創造プロセスに正面から取り組むことで「企業価値の本質的な創造(キャッシュフローの増加)」に注力する「ハンズ・オン(自ら経営に関与する)」方式に向かっています。高い収益率をあげているPEファンドほど、このハンズ・オンでの取り組みに強みがあります。  では、より具体的にPEファンドはどのように企業価値の向上を達成しているのか、以下で見ていきましょう。 |プライベート・エクイティ・ファンドの方法論 ①最大潜在価値を見極める  PEファンドが投資先を決定するにあたってまず最初に行うのが、その企業がどこからどのように利益をあげ、なぜ自分達がその企業に投資を行いたいのかについて、理解を深めることです。彼らは、その企業とその企業が属する業界について客観的に事実に基づいて綿密なデューデリジェンス(企業価値の評価)を実施します。またそのデューデリジェンスは3~5年後に潜在的価値を最大限に引き出した場合、どの程度の価値の向上が見込めるか(つまり、キャッシュフローをどこまで増やせるか)ということも見据えて行うため、現在価値を評価する一般的なデューデリジェンスと区別して、「戦略的デューデリジェンス」とも呼ばれています。実際にPEファンドが投資決定をするにあたっては、3~5年後に企業価値が3~4倍以上になることが目安になってきます。  戦略的デューデリジェンスを実施する際、PEファンドは最低限、次の5つの点について検討します。 <戦略的デューデリジェンスにおいて検討すべきこと> ・需要創出要因分析  需要が生まれる根本的な要因はなにか?  またその要因はどのように変化し、需要にどのような影響を与えるか? ・顧客分析  顧客はどのように変化するか? ・競合分析  競合はどのように行動するか?  業界の競争ルールに大きな変化が起こる可能性はあるか? ・環境分析  将来、技術的に、または規制上の変化によって、影響を受けるか? ・ミクロ経済分析  その企業はどこでどのように利益を生み出しているか?  より効率的に行うことはできるか?  PEファンドはこの戦略的デューデリジェンスを通じて、3~5年後に「キャッシュフローをどこまで増やせるのか?」ということを徹底的に検討します。  同時に、最大潜在価値を追求するために重視されるべき主要イニシアチブ(取り組み)を決定します。その際、重要なイニシアチブにトップマネジメントチームの活動の焦点を合わせるために、3~5つの主要イニシアチブに絞り込み、また「しないこと」も決定します。  主要イニシアチブの決定にあたっては、経験、業界の慣習、経営者の勘に頼らず、「白紙」から物事を考え、あくまで事実ベースで検討します。  大胆で、効果的なイニシアチブを決定するために、また現状維持志向を打破するために、特に下記のポイントについて十分に検討する必要があります。 <効果的なイニシアチブ決定のための検討事項> ・現在の活動をより収益の高いものにするために追加すべき活動はあるか? ・将来の成功に向けて、一部または全部のプロジェクトを位置づけし直す必要はあるか? ・将来に結びつかないプロジェクトからの経営資源を再配置(整理、撤退、再配分)する必要はあるか? ②企業価値向上の具体的なロードマップを描く  PEファンドは、投資先候補の最大潜在価値を見極め、対象企業への投資から十分な投資リターンが見込めると判断すると、投資の実行前にあらかじめ「対象企業の最大潜在価値を引き出すための具体的なロードマップ」を準備します。  このロードマップが十分に実現可能であると判断すれば、投資を実行します。そして企業買収後には、対象会社の主要メンバーも加えて、ロードマップを基にして実行計画として落とし込んでいきます。  「具体的なロードマップ」とはビジョンや中期経営計画のようなものではなく、最大潜在能力を引き出すために見定めた主要イニシアチブを達成するための核心的かつ具体的な行動計画、即効性のある改善計画のことです。有事の変革の最初の段階において優先しなくてはならないのは、抽象的なビジョンや業績見通しではなく「目の前のキャッシュフローの改善」であり、そのための具体的な取り組みなのです。かつてIBMを瀕死の状態から再建したルイス・ガースナーが会長兼CEOに就任当初「いまIBMにもっとも必要のないものはビジョンだ」*と語ったことは有名な逸話となっています。  もちろん一般的な企業においても分析に基づいた事業計画はありますが、将来的に大きな成長が見込まれる有望な部門により注力するために、「整理縮小すべき部門はどこか」ということまで突っ込んだ議論がなされている企業はそう多くはありません。ほとんどの企業では、すべての事業部門において前年度以上の成長率を目標とし、しかし全体としては月並みな計画を掲げているのが実状です。企業価値の向上のためには、より具体的に「なにをどのようにすればキャッシュフローが増えるのか」について行動計画にまで落とし込んでいく必要があります。ただし、この時、長期的な視点を持たずコスト削減偏重の短期的なキャッシュフローの改善のみを追い求めれば、むしろ将来の企業価値を損なう結果になることにも注意する必要があります。  ロードマップの作成にあたっては、主要イニシアチブごとに、以下の事項を決めます。 <主要イニシアチブごとに決定すべきこと> ・具体的な行動 ・必要な資源 ・スケジュール(3~6か月) ・プロジェクトの段階ごとの到達目標 ・評価指標(インディケーター) ・提出書類 (*)ルイス・ガースナーは、1990年代にIBMを倒産瀬戸際の瀕死の状態からV字回復を成し遂げた経営者。IBMの会長兼CEOに就任する以前にもプライベート・エクイティであるKKR(コールバーグ・クラビス・ロバーツ)が大型買収を仕掛けたRJRナビスコのCEOを務め結果を残した。IBM後には世界最大級のプライベート・エクイティであるカーライルグループの会長を務めた。なお、この発言は次のように続く「たったいまIBMに求められているのは、各事業についての冷徹で、市場動向に基づく実効性の高い戦略だ。つまり、市場での実績を高め、株主価値を高める戦略だ。」 (参照:ルイス・ガースナー、『巨象も踊る』、日本経済新聞社、2002) ③優秀な人材を登用する  ロードマップが作成されたら、次はそのロードマップの実行のための組織を編成します。PEファンドは、現場にも足を運び、顧客の声を聴き、課題を抽出することは当然として、組織を動かしていくためには「経営陣と取締役会によるトップ・マネジメント・チーム」を最重視します。そして、トップ・マネジメント・チームの各メンバーはそれぞれ主要イニシアチブの実行に責任を持ち、最優先事項として経営に取り組みます。  トップ・マネジメント・チームのメンバーは、成果報酬の比率を高め、職責に応じて株式、ストックオプションを付与することで、成功に向けて、結果主義を徹底し、PEファンドと目標意識を共有します。経営者であると同時に株主でもあるといったほうが良いかもしれません。人材には、主要イニシアチブの実行にふさわしい能力と意欲が求められます。社内に適当な人材がいない場合には、社外からも積極的に人材を募ります。人材の特徴としては、問題解決型であることは間違いありません。経営者にふさわしい優秀な人材を確保できるかどうかもPEファンドの力量が問われる点といえるでしょう。  また、トップ・マネジメント・チームを機能させるために、主要イニシアチブに関する情報、主要評価指標の状況、異変がまっさきにトップ・マネジメント・チームに伝わるように体制を整えます。  主要イニシアチブの実行にあたっては、各イニシアチブごとのプロジェクト・チームを編成し、プロジェクト・チームには特別な権限を与えるのと同時に、各イニシアチブの実行の責任者にはトップ・マネジメント・チームの一員を任命し、説明責任を与えます。イニシアチブに対する当事者意識を持たせることが重要になります。 <実行のための組織づくりのために重要なポイント> ・極めて優れたトップ ・トップマネジメントチームを組織する(経営陣、取締役会) ・イニシアチブ遂行のための組織(実行にふさわしい能力と意欲を備えた人材) ・責任の明確化(説明責任) ・報酬で報いる(特に株式による報酬) ④主要評価指標を計測し実行プロセスを管理する  PEファンドが最も重視するのは、キャッシュフローです。会計上の利益ではなく、キャッシュフローを最重視します。  また主要イニシアチブの実行のためのロードマップの進捗を把握、管理、モニタリングするにあたっては、元々その企業で使われていた会計指標、管理会計データはあまり効果的でないことのほうが多いため、新たに適切な指標を設けます。会計上の利益をはじめとして、一般的に使われている会計指標は様々な要素によって歪められており、直接的に事業のキャッシュフロー創出力を表しておらず、また、新たに決定された主要イニシアチブの達成度を測定するために適切とも言えないためです。  そこで、PEファンドは、主要イニシアチブごとに適切な主要評価指標(インディケーター)を設定します。 イニシアチブごとに、インディケーターも異なるため一概には言えませんが、効果的なインディケーターは以下の特徴を備えています。 <効果的な主要評価指標(インディケーター)の特徴> ・アウトプットを測定する。アクティビティ(活動)を測定するのではない。 (例)営業の注文を測定し、訪問回数を測定するのではない。 ・物理的に測定し、計算のできるものを測定する。 ・正副の対をなす。 (例)在庫量の減少と欠品率を併行して測定する。  インディケーターはあらゆる種類の問題を解決する時に非常に役に立ちます。イニシアチブの達成に向けて何か問題があれば、規準からの不健全な形で逸脱している部分を調べることができ、責任者に是正を求めることができます。まとまりがあり、的確なインディケーターを組織的に収集し、これをまとめて維持していなければ、必要な情報を入手するのに恐ろしいほど多くの迅速な調査を実施しなければならず、その情報が手に入るころには、問題は手がつけられないまでになっていることでしょう。 ⑤自己資本を働かせる  一般の事業会社が、損益計算書(PL)を重視している傾向が強いのに対して、PEファンドは貸借対照表(BS、バランスシート)を重視しています。会社は成長するために、資本を必要としています。その資本に対する考え方が、一般の事業会社とPEファンドでは大きく異なります。  多くの事業会社は、バランスシートを静的な業績指標として見て、いままでの事業の結果として考えています。それに対し、PEファンドはバランスシートをダイナミックな(動的な)経営ツールとして考えています。  PEファンドは、自己資本の消費が少なく抑えられるレバレッジ(借入金)を最大限活用します。たとえば、10億円の投資が必要な事業に対しては、3億円の自己資金を出資し、7億円を借入金で調達します。そして、その事業は現金を生み出すことに集中し、借入金を返済すれば、次の生産的な投資に資金を振り向けます。また、固定資産の運用も積極的に見直し、資産を担保に追加の借入を行ったり、オフバランス化によって現金を創出するなど、積極的に運用を行います。レバレッジを活用することで投資効率を高めると同時に、自己資金の減少を抑えるのです。  また、いわゆる営業フリー・キャッシュフロー仮説においては、有利子負債は経営者の投資、資本の活用に対する統制を強化する効果があるとされています。PEファンドは過去数十年にわたってこの営業フリー・キャッシュフロー仮説を実行してきたことで知られています。特に、キャッシュフローは潤沢だが成長機会に乏しい企業では、経営者の統制の手が緩みがちになります。従業員への諸手当を手厚くしたり、豪華な社屋を保有したり、成長を実現するために価値を毀損するような投資プロジェクトに承認を与えたりしてしまいます。有利子負債によって、計画的な元利返済を事業からのキャッシュフローでまかなう必要が生じることによって、経営者の資金管理に対する姿勢を厳密なものに強化することができます。  このようにPEファンドは自己資金に、(1)新たな事業資金の調達、(2)経営陣の資金管理に対する統制を強化するという2点において、自己資金自体も働かせているのです。 <自己資本を働かせるために必要なこと> ・キャッシュの創出力に焦点をあわせる ・レバレッジ(借入金)を活用する ・バランスシート上の資産、特に収益を生み出していない資産を新たな資金創出に活用する ・運転資金を徹底的に管理する ・投資を徹底的に管理する ⑥責任、成果に根ざした結果主義の企業風土を醸成する  買収した企業が最大潜在価値に到達するためには、組織内部から新たな成功を生み出す体制を整える必要があります。そのためにPEファンドは結果主義の企業風土を植え付けることに注力します。  結果主義の企業風土をつくりだすために、まず最初に肝心なのが、早い段階で顕著な成功事例を示すことです。成熟企業での諦めムードなどを一掃するためにも、この点は非常に重要になります。また、事業責任を明確にし、指示を与えたら、必ず、完遂を求めることが必要です。この点、意外と多くの企業で見過ごされている点ですが、指示を与えられても、その後やり切るところまでしっかり追いかけられていないケースはよくあります。  そして、コミュニケーションを重視することも重要です。大きな変革にあたっては、従業員は本能的に保身的になりやすくなっています。その時、明確な方針、指針をしっかりと常々伝えていくことで、変革に従業員を巻き込んでいくことが、自発的な取り組みを促すうえで重要になってきます。  コミュニケーションの手段は、文書化された公式のコミュニケーションだけでなく、口頭、電子メールでの非公式のコミュニケーション、またトップ自らが行動によって断固たる変革への意思を示すことによって、組織の変革を促していく必要があります。 <結果主義の企業風土を醸成するために必要なこと> ・顕著な成功事例を示す ・コミュニケーションを重視する(公式、非公式、行動) ・事業責任を明確化して完遂を求める(説明責任) ・反復可能な方式を確立する(ルーティンまでの落とし込み) ・絶えず計画を上方修正し、指標を見直す  プライベート・エクイティ・ファンドは上記のプロセスを実践し、「本質的な企業価値の向上=キャッシュフローの増大」を実現させています。  PEファンドは実際に、株式への直接投資、投資信託、債権、不動産、ヘッジファンドなどのほかの投資形態より優れたリターンをだしているため、年金基金、大学基金などの機関投資家も、この数年間で、PEファンドへの投資比率を高めてきています。それはつまり、PEファンドが買収企業の企業価値をそれ以上に高めてきたということを示しています。  一般の事業会社の経営においても、PEファンドの実践している考え方、取り組みは大いに参考になることでしょう。

  • 企業価値を高めていくための ベンチャーの資本政策

    世の中には数多くの株式会社がありますが、 株式を実用的に活用している会社は どの程度あるでしょうか? 設立時から、まったく手をつけていない会社も多いのではないかと思います。 しかし、実は株式会社にとって、 株式は最大の武器になる可能性を秘めています。 ベンチャー企業は、 株式の活用次第でその後の成長に 大きく差がでてきます。 資本の潤沢な大手企業と違い、 資本の限られている創業期のベンチャー企業は、 株式を使うことで資金調達、優秀な人材の獲得、企業間提携、買収などを 柔軟に行うことができるようになるのです。 創業期の株式の力を要約するならば、 株式は「あなたの経営戦略を金銭価値に変換して仲間を増やす」ための “ マニュアル式トランスミッション ”なのです。 では、ギアチェンジのそれぞれの段階を事例を使ってみていきましょう。 ①第1段階 創業者が自己資金を出資して、 会社を設立します。 この時、会社の資本金額が会社の全資産となります。 ここで注意して欲しいのが、 会社の資本金額、資産額などの帳簿上の価値と 「企業価値」はまた別物だということです。 企業価値は、 会社の資産から将来生まれる キャッシュフローの現在価値の総和で決まります。 つまり、企業価値は、 あなたの持っている経営戦略と その現実的妥当性とビジネス・リスクが決めるのです。 この段階では、創業者が100%の株式を保有しています。 ②第2段階 共同経営者などの創業メンバーが参画します。 この場合、共同経営者A、共同経営者Bが それぞれ200万、100万の資本提供も伴い経営に参画したとしましょう。 創業者 70% 共同経営者A 20% 共同経営者B 10% 資本金 1000万 企業価値 額面もしくは評価 この時、注意しなければならないのが、 創業者の持ち株比率です。 この後の、事業拡大を考えた時に、 スピーディーな意思決定を行えるように、 創業者が十分な割合の株式を保有しておく必要があります。 過半数以上の株式を抑えておく必要はあるでしょう。 また、事業計画に基づいて、 投資家にアプローチしていくための基礎的な企業価値評価を行い、 自社の価値を把握しておくことが重要です。 ③第3段階 ここからは、いよいよ外部の投資家の資本も受け入れる段階になります。 創業者、創業メンバーにより、 事業計画も準備し、製品・サービスのプロトタイプもリリースしたと仮定しましょう。 この段階では、小規模であっても 創業メンバーの生活がまかなえる程度の キャシュフローが事業から生まれていることが、 投資家との交渉にあたって重要になります。 これはラーメンプロフィッタブル(ラーメン代稼ぎ)と言われており、 外部投資家が資本を供出するにあたり、 存続のための資金の心配を取り除くことになり、 経営陣側、投資家側双方により前向きな取り組みを可能にするメリットがあります。 投資家には、シード期に出資を行うエンジェル投資家~ベンチャーキャピタルまで いくつか種類がありますがこの事例では一括りにVCとして扱うことにしましょう。 最初に外部投資家であるVCからの出資を受け入れる際には、 出資比率に注意しなくてはなりません。 事例においては、 発行済み株式数の10%の出資を受け入れています。 すると創業者を含めた他の全てのメンバーの持ち株比率が (当初の持ち株比率)×0.9で下がっていることにに注意してください。 その後の成長を考えると、 最初の資金調達以降にも、数度、外部から資金を調達する必要がありますが、 初期のラウンドにおいて、過剰な比率での出資を受け入れてしまうと、 経営陣の持ち株比率の希釈化(創業者の持ち株比率が最も希釈化の影響を受ける)に伴い、 次のラウンド以降の出資を受け入れるために経営陣に十分な持ち株比率が確保できず、 経営陣へのインセンティブが失われるとともに、 経営のコントロールが失われてしまうことになります。 またこの段階であまりにも高い株価で出資を受けると、 次のラウンド以降の投資の受け入れを困難にしてしまう点についても 注意が必要です。 さて、事例においては、 企業価値を3億と評価し、VCから 3,000万を新たに調達しました。 それぞれの持ち株比率は下記のようになります。 創業者 63% 共同経営者A 18% 共同経営者B 9% VC 10% 資本金 4,000万 企業価値 3億 ④第4段階 順調に事業が成長してくると、 更に追加での資金が必要になってきます。 VCから追加出資を受けたとしましょう。 企業価値を5億として、追加で5,000万の出資を受けました。 創業者 56.7% 共同経営者A 16.2% 共同経営者B 8.1% VC 19% 資本金 9,000万 企業価値 5億 ⑤第5段階 事業が軌道に乗ってくると、 成長のスピードも速くなり、 より優秀な社員を確保していく必要もでてきます。 社員のモチベーションのためにも、 ストックオプション(株式を事前に取り決めた価格で取得できる権利)を 活用していくことになります。 ストックオプションは行使(エクササイズ)することで、 株式を取得することができます。 行使価格1万で発行されたストックオプションが、 上場等により20万の価値を持てば、19万のキャピタルゲインを得ることができます。 ベンチャー企業側は、 社員に対して、一度にストックオプション全てを行使をされてしまうと人材の確保ができませんので、 ベスティングを設定し、1年に25%ずつ行使できるなどの縛りを付けます。 ストックオプションのために使う株式は あらかじめオプションプールとして準備しておきます。 創業者 51.03% 共同経営者A 14.58% 共同経営者B 7.29% VC 17.1% オプションプール 10% 資本金 9,000万 企業価値 10億 この後も、ベンチャーが成長するに従ってラウンドを数度重ねていくことになります。 第1段階から第5段階までの流れをまとめるとこのようになります。 創業者の持ち株比率は経過とともに下がってきていることがわかります。 このことを「株式の希釈化(希薄化、Dilution)」といいます。 しかし、自身の株式は希釈化する一方で、株主には新しい当事者が増えています。 これが、会社を大きくするということなのです。 創業者の持ち株比率は、 ベンチャーの成長段階の進展とともに下がっていきますが、 新しい株主が増えていくことにより企業価値が上昇し、 金額ベースでの創業者の株式価値は大きくなっていきます。 ベンチャーの資本政策(株式配分)で大事なのは、 将来の成長を阻害しないように持ち株比率のバランスを保ちながらも、 発行済み株式を金額ベースで考えることです。 そのためには、 経営者は自社にいくらの価値があるのかについて、 そして今後のベンチャーの舵取りのためにはどの程度の株式持ち分を確保しておくべきかについて、しっかりとしたソロバンと将来見通しを持っていることが、非常に重要になります。 創業者の資本政策について、 フリーミアムの名付け親で、Twitter、Tumbler、Foursquareへの投資実績を持つ ベンチャーキャピタリストのフレッド・ウィルソンが より専門的な講義を行っている貴重な映像があります。 ご興味ある方はこちらもご視聴いただくと良いと思います。 A Class on "Employee Equity" taught by Fred Wilson,USV http://livestream.com/Skillsharelive/MBAMondays/videos/490550 Web記事はコチラ↓ MBA Mondays Illustrated Business 101 for startups by Fred Wilson, "Employee Equity" https://www.mba-mondays-illustrated.com/category/employee-equity/

  • なぜ、いまM&Aが必要なのか

    企業経営におけるM&Aの有効性については多くの研究によって確認されています。 結論から言えば、M&Aをうまく活用できる企業は企業価値(会社の経済的価値。つまり " 値段 ")が高くなる傾向があります。 長期的な株価にM&Aがどのような影響を与えるのかについての調査によれば、日経平均が20年前とほぼ同水準である一方で、M&Aに積極的な企業上位20社の株価指数は2倍となっていたことが明らかになっています。 また、企業価値向上という結果に加えて、M&Aには経営戦略の実行、企業変革に際しての経営ツールとしてプロセス上の大きな利点があることにも注目する必要があるでしょう。  M&Aの有効性を理解し活用できる企業は成長を実現し、理解していない企業は急速な市場の変化についていけず利益率の低下と低成長に悩まされています。  近年、大企業による積極的な事業買収、または中核事業への集中のための事業売却が多く報じられていますが、M&Aは決して大企業だけが有効に活用できるツールではなく、中小企業にとっても市場の急速な変化に適応していくために欠かせない戦略オプション(経営の選択肢)となってきています。 むしろ中小ベンチャー企業のほうが、柔よく剛を制し大企業と拮抗していくためにM&Aが必要とさえ言えるでしょう。  本稿ではM&Aを、企業買収や事業買収といった買手側の施策だけでなく、株式譲渡や事業売却といった売手側の経営行動を含めて広義で「M&A」を解釈し、中小企業にとってのM&Aの必要性について検討してみましょう。 |企業とは何か?  M&Aについて考察するにあたり、まず、そもそも企業とは一体、何なのでしょうか。 また企業が継続的に価値ある存在であり続けるためにはどのような取り組みが必要なのでしょうか?  企業について考えるとき、その視点によって企業の捉え方も異なってきますが、今回は企業内部の経営資源に着目して考えてみたいと思います。企業の経営資源は、生産設備や不動産等の有形資産、ブランドネームや特許等の無形資産に加えて、顧客対応力等のその企業固有のケイパビリティ(組織の遂行能力)によって構成されています。企業を経営資源の視点から考えるとき、有形資産・無形資産・ケイパビリティ、これらの経営資源の独自の組み合わせが、その企業の強み・弱みを形作っているといえます。  企業の本質は、市場から資本・労働力・原材料・設備などを調達し、店舗・工場などの有形資産、知識・経験・技術などの無形資産、その企業固有のケイパビリティを活用して、より高い価値を生み出すことにあります。 つまり、企業は内部の経営資源の組み合わせによって、インプットより大きなアウトプット(価値)を生み出すことによって、社会的に必要とされ存続することが可能となります。  さらに注目すべき事柄として、近年、以前より技術・社会・市場・顧客の趣向の変化のスピードが早くなってきているため、状況変化に応じて経営資源の組み合わせ、配置をスピーディに切り替えていき、変化に適応していく能力の必要性が高まってきています。 この転換と再配置の能力こそ、まさにイノベーション(革新、刷新)を起こすための原動力となります。 |イノベーションの手段としてのM&A  イノベーションという概念の起源は、オーストリア出身の経済学者であるヨーゼフ・シュンペーターによって1912年に初めて定義されたことが始まりとされています。シュンペーターは「イノベーションとは経済活動の中で生産手段や資源、労働力などをそれまでとは異なる仕方で新結合することである」と定義しています。  日本ではイノベーションというと技術革新という認識がまだありますが、イノベーションは技術革新にとどまらず、新たなプロセス(工程)によって新しい価値を生み出すことなども含まれた、より広い概念です。  つまり、新技術の開発だけではイノベーションとはいえず、新技術を商業化することがイノベーションの実現にとって重要な要素となります。商業化にあたっては、企業は新技術に適合する新たな経営資源を形成するとともに、新技術と社内外の経営資源を結合・再配置することによって新たな価値を商品化・サービス化して市場に送りだす必要があります。  経営資源の新たな結合を企業間の関係性で考えると、企業内部の経営資源同士の新結合を「企業内部でのイノベーション」、企業同士の境界上で経営資源を融通しあう新結合を「提携」、企業間での経営資源の交換による新結合が「M&A」と捉えることができます。  つまり「企業内部での独自のイノベーション」「企業間提携」「M&A」は、まったく異なる企業活動ではなく、「イノベーション=新結合」という視点で考えたとき、これらの諸活動は企業の境界上のどこで行われている結合なのかということについての区分であると言えます。  これらの企業活動に取り組むに際して、トップ・マネジメントの役割として重要となるのが、 1) 自社固有の能力を定義し、それを開発・育成・補強する創造的行動の触媒となり、組織構造・インセンティブ、ルーティンをデザインすること、 2) もはや価値を生みださなくなった既存の資産・ルーティンを継続的に棄却できるようなルーティンを発展させることです。  一連の「イノベーション=新結合」に関しての経営者の取り組みについて、カリフォルニア大学教授のデイビッド・J・ティースは経営者の役割をオーケストラの指揮になぞらえて、資産の「オーケストレーション」と呼んでいます。  オーケストレーションとは企業内、企業間での新たなケイパビリティの形成・再形成・配置・再配置・結合・再結合・整合化を行うことであり、企業が技術・市場の変化に適応していくために必要な経営者の重要な能力・スキルです。 オーケストレーションを行っていくためには、特に新進のベンチャー企業、中小企業にとって大企業以上に、M&A・企業間提携は欠かせない取り組みだと私たちは考えています。  大企業はオーケストレーションにあたって、豊富な内部資源の組み合わせ、再配置を検討することができます。しかし、限られた資源の持ちあわせしかない中小企業は内部資源の組み合わせでは事足りません。中小企業は大企業以上に、外部資源を含めたオーケストレーションによって自社の有形資産、無形資産を配置、再配置することで自社固有の組織能力(ケイパビリティ)を獲得・構築していく必要があります。 |トップ・マネジメントが影響を及ぼす2つの領域  経営者は企業を経営していくにあたり、大きく分けて2つの領域に影響力を行使しています。 企業の内部、つまり「経営者と自社の関わり方の領域」においてと、企業の外部、つまり「自社と外部の関わり方の領域」です。 <経営者と自社の関わり方の領域> ・ビジョン、価値基準の設定 ・ビジネスモデルの採用 ・企業文化の醸成 ・目標の設定 ・スケジュールの設定 ・コミュニケーション ・組織設計 ・資源の分配 ・権限移譲 ・人材登用 ・人材育成 ・チーム・マネジメント ・プロジェクト・マネジメント ・情報中枢 <自社と外部の関わり方の領域> ・情報の発信 ・交渉 ・取引 ・ネットワークの構築 ・内部への情報の伝達(必要な情報) ・内部への情報の取捨選択(必要でない情報) ・利害関係者への利潤の分配 ・必要な資源の調達 ・情報中枢  トップマネジメントが影響を及ぼすこれら2つの領域において、それぞれの領域にM&Aがどのような役割を果たすのかについて、以下で考えていきましょう。 |経営者と自社の関わり方の領域におけるM&Aの役割  経営者は、自社の様々な役割の人と直接コミュニケーションをとり、時にみずから仕事の実行を担い、組織を束ね導いていく役割を担っています。  経営実務において非常に重視されることの一つに、「経営者のマネジメント・スタイル」があります。 当然ではありますが、経営者にはそれぞれ「マネジメント・スタイル=経営のやり方」があります。  ある経営者は勃興しつつある新興市場において新たなビジネスを立ち上げることを得意とし、別の経営者は危機に直面した企業の再建を得意とし、また別の経営者は導入期から成長期にかけてベンチャー企業をより効率化するための管理手腕に長けているといった具合にそれぞれの経営者にはその経営者の経験に基づいた固有のマネジメント・スタイルがあります。  経営者にはそれぞれの持ち味となる固有のマネジメント・スタイルがあるということは、言い換えれば、経営者にはマネジメントの実行において一定の限界もあるということでもあります。  固有のマネジメント・スタイル(たとえば経費節減による効率化を得意としている、プロモーションによる売上増を得意としているなど)に対して、事業はマネジメント・スタイルを受け入れる受け皿のようなものと考えてみましょう。  経営者が事業に取り組み始めた当初には、事業はまるで空のコップに水を注ぐように経営者のマネジメント・スタイルを受け入れ、収支も向上していきますが、コップに十分に水がたまってくると、その経営者の固有のマネジメント・スタイルによる改善の効果も、当初の劇的な効果に比べると弱まってきます。コスト削減は削減の余地がなくなり、プロモーションも十分に行き届き、管理の体制も出来上がってくるからです。また、事業の成長の段階(導入期、成長期、成熟期、衰退期)に応じて、求められるマネジメント・スタイルも変わっていきます。  経営者の特定のマネジメント・スタイルによる事業の業績改善の効果が薄れてきた時、現状維持を除けば、経営者の取りうる選択肢は3つです。 ①経営者が新たなマネジメント・スタイルを採り入れる ②新たなマネジメント・スタイルを持つ経営者に交代する ③経営者のマネジメント・スタイルの新たな受け皿を準備する  ①は、経営者として当然、必要なことです。しかし、経営者個人は決して周囲360度に対して万能になれるわけではないことも理解する必要があります。マネジメント上の新たな試みに際しては習熟するために時間も要します。様々なマネジメント・スタイルを習熟することより、特定の強みがあるマネジメント・スタイルに集中して伸ばしていくことのほうが賢明という場合もあるでしょう。  ②については、十分に検討の価値があります。創業経営者には経営者を交代する意思、選択肢がない場合がありますが、部門経営者の交代であれば、人材の登用、抜擢を通じて十分に可能です。外部から部門経営者を招き入れることもできるでしょう。新たなマネジメント・スタイルを事業に注ぎ込むことによって、飽和状態となっていた事業を再活性化することが可能になります。  ③は、②の方法と組み合わせることによって、その企業にとって最も経済的価値を生み出す方法となりえます。  この方法論を私たちは「M&Aによる空白スペース、余剰資源のマネジメント」と呼んでいます。  「M&Aによる空白スペース、余剰資源のマネジメント」は、経営者のマネジメント・スタイルにあった事業を新たに取得することによって、組織はいままでに実績を十分にだしてきた方法で取得事業の業績向上に取り組むことができます。 つまり、経営者のマネジメントスタイルを十分に注ぎ込める新たな空白スペースをつくりだすことで、既存事業で培ってきたケイパビリティ(組織の遂行能力)を存分に働かせられるミッションを生じさせるということです。  既に空白スペースが満たされている既存事業については、別の経営者の下で異なるマネジメント・スタイルを適用すれば、まだ成長・改善の余地があると考えられる場合、他社に十分な譲渡価額での事業売却することが可能となるでしょう。 またその際には、資金面でのメリットだけでなく、その他の回収した経営資源(余剰資源)を別の事業に振り向けることも可能になります。 そして無形資産として最も重要な知識・経験・スキルについては、事業売却にともなって完全に失われるものではないため、次の事業に活かすことも可能です。  「M&Aによる空白スペース、余剰資源のマネジメント」は、“成長余地のある空白スペース”と“成長の手段となる余剰資源”を獲得し新たな成長機会を創出するだけでなく、トップの意思・方針を強く示す効果、新たな学習機会を得る効果、組織をゆさぶり危機感を醸成する効果、社内のモチベーションを高める効果、官僚体質を取り除く効果など、様々な効能があります。 自社の事業の売却、新たな事業の取得を検討することによって、自社における事業の価値・ポテンシャル・機会を継続的にチェックし、客観的に評価・意思決定を行う能力が培われることも大きな収穫といえるでしょう。 ・マネジメント・スタイルを注ぐ受け皿としての事業 ・既存の事業を客観的に評価する ・新たな事業機会を検討する ・マネジメント上の強みにフォーカスする ・空白スペース、余剰資源をつくりだす(成長余地、成長余力を生みだすマネジメント) ・トップの方針を示す ・トップ自らの戦略的行動によって組織を揺さぶり動かす |自社と外部の関わり方の領域におけるM&Aの役割  経営者は、企業と外部との関わり方について組織に指針を与え、導いていく役割を担っています。 特に、自社の事業をどのように定義するか、将来に対してどのような仮説を持つかを検討することによって、そして継続的な戦略的行動の積み重ねによって、新たな市場をつくりだすこと、その市場での優位性が確保できる能力の開発が求められています。  既に「企業とは何か?」の節で述べたように、企業を、インプットからより大きなアウトプットを生み出すための「経営資源のひとまとまりの組み合わせ」だと考えるならば、技術・社会・顧客の趣向が変わることによって、市場の形が刻々と変化していくことに対応するために、経営者は「オーケストレーション」のスキルを用いて、経営資源の組み合わせを再構築することによって企業の形を変化させていく必要があります。  米繊維メーカーのミリケン・アンド・カンパニーは、繊維産業がまるごと米国からアジアに移ってしまった苦難の時期を乗り越えて、ハイテク事業に舵を切り事業転換を行いました。 このミリケン・アンド・カンパニーの事例を、経営学者のリタ・マグレイスは、古い優位性から絶えず資源を引き揚げ、新たな優位性の開発に投資するというパターン(McGrath 2013)の成功事例として取り上げています。  急速な変化に適応していくために、企業は積極的に技術・社会・顧客・市場の変化を機会として捉え、事業を絶え間なく再構築する必要があります。  M&Aという経営ツールは、経営資源・ケイパビリティ(遂行能力)の再配置を通じて、事業の再構築を行う際、 自社の方向性と異なる事業から資源を引き揚げ、自社の方向性に適合する新たな事業に資源を振り向けるために、 欠かせない選択肢のひとつとなってきています。 企業は早い変化に適応していくために、資源配分のプロセスをより柔軟な形でコントロールし、企業内部でのイノベーションのみならず、M&A、企業間提携によって外部資源をより積極的に利用していく必要があるのです。 ・継続的に自社の企業戦略、事業戦略を見直す ・自社の中核事業を再定義する ・境界を引き直す 企業境界の選択問題を形づくるのは、価値創造に基づいた資産の選択にほかならず、単に取引費用の最小化にとどまる話ではなく、自社固有の企業能力をどのように獲得、蓄積していくのかという命題に対する回答となる。(Teece 2009) ・必要な外部資源、ケイパビリティ(組織の遂行能力)を取り込む ・自社にとって魅力が薄れてきた事業から経営資源を引き揚げる 参考文献: 『ダイナミック・ケイパビリティ戦略 :イノベーションを創発し、成長を加速させる力』 DYNAMIC CAPABILITIES & STRATEGIC MANAGEMENT デイビッド・J・ティース 2009 『競争優位の終焉』 The End of Competitive Advantage リタ・マグレイス 2013 『マネジャーの実像』 MANAGING ヘンリー・ミンツバーグ 2009

  • テクノロジーの進化が中小企業にもたらす変化

    “未来の展望や可能性について考えていると、人類史上最もペースが速く最も刺激的な、輝かしき新時代が、今まさに始まろうとしていることに気づく。これから、私たちは、過去のどの世代よりも多くの変化を、より速いペースで経験することになるのだ。 ” エリック・シュミット (Google会長) “断言してもいいだろう。戦略転換点という死の谷を通ることは、組織が耐えなければならない試練のなかでも最大のものだ。けれども、10Xの力が降りかかってきた時に選べる道は、変化に立ち向かうか、必然的な衰退を受け入れるか、二つに一つだ。まさに選択の余地はないのだ。” アンドリュー・S・グローブ (元インテルCEO兼会長)  2025年、世界人口80億人のほとんどがインターネットにつながり、2030年に人工知能は人間の知能を超え、さらに2045年には世界のロボットの数が人類の全人口を上回ると予測されています。  まるでSFのような話ですが、人工知能 = AI が人間の知能を超える時点はシンギュラリティ(技術的特異点)と呼ばれ、実際にいま有識者、科学者たちの間で真剣に議論されており、グローバル企業はAI関連技術の開発を積極的に進めています。 出所 TIME 2045: The Year Man Becomes Immortal  これらの予測の理論上のバックボーンとなっているのは、「ムーアの法則」と呼ばれている法則です。  ムーアの法則とは、インテルの創業者の一人であるゴードン・ムーア博士が1965年に提唱した経験法則で、「集積回路上のトランジスタ数は18か月ごとに倍になる」というもので、つまり「コンピューターの性能は18か月ごとに倍になる」という法則です。この法則を現在開発が進められているAI(人工知能)テクノロジーに応用することで、シンギュラリティの実現が予測されています。  さらに現在、AI以外にも様々な技術の急速な発展が進んでいます。 EasyMile オランダでは公道を走る完全無人運転のシャトルバスがスタートする。自動運転車の実用化第1号となる。  各種統計報告においても2030年までの15年でいくつもの巨大市場が生まれる、もしくは既存市場と入れ替わることが予測されています。 <IoTの市場規模予測(日本)> 2014年  9兆3,645億円 2019年  16兆4,221億円 出所 IDC Japan 2015/2/5 <ドローンの市場規模予測(日本)> 2020年 約200億円 2025年 約440億円 2030年  1,000億円超 出所 日経BPクリーンテック研究所 2015/6/30 <AI関連産業の市場規模予測(日本)> 2015年  3兆7,450億円 2020年 23兆638億円  (年率 +43.8%) 2030年 86兆9,620億円 (年率 +14.2%) 出所 EY総合研究所株式会社 2015/9/15 <再生医療の市場規模予測(日本)> 2020年    1900億円 2030年 1兆6,000億円 2050年 3兆8,000億円 出所 経済産業省 2013/2/23 <自動運転車の販売台数予測(世界)※> 2025年 1,450万台 (新車販売台数の13%) 2035年 3,040万台 (同 25%) ※完全自動運転・部分運転含む 出所 ボストン コンサルティング グループ 2015/1/9  かつてインテル創業者の一人であるアンドリュー・S・グローブは、80年代における日本企業との半導体市場での熾烈な価格競争や、メインフレームからパーソナル・コンピューターへの移行に伴う業界構造の急変化、またインターネットの登場が企業に与える急激な影響を「10Xの力」と表現しました。そして「10Xの力」によって、さまざまな力のバランスが変化し、これまでの構造、これまでの経営手法、これまでの競争の方法が、新たなものへと移行していく時を「戦略転換点」と呼びました。  今日、テクノロジーの進化にともなって、「10Xの力」が前例のない規模で企業に影響をあたえようとしています。  例えば、「書店にとってのAmazonの脅威」のようなケースが、あらゆる業種で起きる可能性があることを想定しておくことが必要となります。いま予測されている多分野にまたがるテクノロジーの進化は、同時併行して様々な業界に頻発的に、また突発的な急変化をもたらします。その変化が市場に与えるインパクトはインターネットの普及による変化を上回る可能性もあります。  ひとたび、ある産業に10Xの力が働きはじめると、いわゆる業務改善による既存モデルの効率化だけでは環境変化のスピードに対応することはできません。産業構造を揺るがす急激な変化に対応するためには抜本的な戦略の見直し、つまり「戦略転換」が必要となります。  いま進行しつつある変化に適応していくために、特に重点的に検討が必要なポイントが次の三点です。  これから予想される急激な市場の変化に対応していくためには、企業は顧客、従業員、ステークホルダーとのコミュニケーション、価値創造の源泉となる知的資産の蓄積、変化に積極的に対応していくための機動性と柔軟性を強化していく必要があります。 |コミュニケーションを重視する  企業はいま、付加価値の高いサービスを提供していくためには、コミュニケーションを通じて顧客の意思決定、自己実現に深く関与していくことが求められています。  AIまたはコンピューターがいかに進化しようとも、人間同士のコミュニケーションという目的がコンピューターに代替されることはありません。たとえ手段としてコンピューターを使うとしても、最終的に意思疎通し合意するのは当事者である人間同士です。一方、コミュニケーションをともなわない技能、サービスは今後テクノロジーによって置き換えられていきます。 テクノロジーが進化すればするほど、テクノロジーに置き換えられない人間同士のコミュニケーションの質が付加価値としてより重要になってくるでしょう。  音楽業界ではインターネットによる音源のデジタル・ダウンロードへの移行をきっかけに、日本国内の音楽ソフト生産額はピークの1998年6,074億円から、2014年1,965億円と減少を続け、市場は半分以下に縮小しました。一方、1998年にはCDの売上と比較すると1/5以下だったライブ、コンサートによる興行収入は現在CDの売上に迫る勢いで伸びています。  マドンナ、U2などトップミュージシャンと次々に契約を結び、日本でもレディー・ガガのライブを開催した、ライブ・ネイション社はCDの新曲パッケージをライブチケットにつけて無料配布するなど、パッケージをライブの宣伝に使い、従来と全く逆のマーケティングを行い興行を成功させ、エンターテイメントのライブ優位時代を代表する企業となっています。アイドルグループAKB48は、さらにパッケージに握手券という体験価値をつけることによって、普通は一枚しか買わないパッケージを複数買いさせ、売上ランキングの上位を獲得しニュースバリューを生むという、戦略的な成功パターンを生み出しました。 一度きりの体験だから買う。一回しか会えないから、何枚でも買う。体験と希少性という価値を活用しパッケージの価値や売り方そのものを変えています。  従来のCDの販売においては、売り手側がスケジュールから内容までコントロールしていましたが、コミュニケーションを重視するライブ・ビジネスにおいては、顧客の反応も見ながら柔軟な対応が求められます。マーケティングにおいてもライブ同様に顧客の反応を素早く取り入れることが競争優位の獲得につながっています。 |知的資産の蓄積を重視する  IoTの進展にともない「市場知」や「製造知」を、いかに「モノ」に埋め込めるかといった、「知識製造業」化がより重要な経営課題になってきています。  今後、ありとあらゆるものがインターネットとつながり、コンピューター化していきます。 電話、書籍、時計、家電、車、家、衣類、日用品…  モノそのものの製造技術の優劣ではなく(モノの製造技術には既にアウトソーシングで容易にアクセスできる)、モノにどのような知識、データをもたせるのかということが、差別化の要因となります。  例えば、シャツとコップが医療システムに接続され、使用者の健康状態を医療システムで常時モニタリングし、必要に応じてコップから適量の薬を処方する、バーチャル病院として機能するというようなことが普通になってくるのです。 この場合、付加価値を生み出すのはシャツ、コップの製造能力ではありません。シャツ、コップを通じてやりとりされる情報の質と、サービス提供者の持つ医療データベースが付加価値を生み出します。  顧客、ステークホルダーとのコミュニケーションの積み重ねがデータの蓄積につながり、そのデータの蓄積が付加価値創造、知識創造の知的源泉となります。さまざまなデータをビッグテータとして収集し、顧客ごとにデータに基づいた提案をする1to1マーケティングが主流となっていきます。  東京都港区の梱包材販売業、スターウェイ株式会社は梱包材販売における輸入低価格品との価格競争を避け、自社のリユース梱包材を使って電機メーカー等顧客と効率的な物流システムを構築することで付加価値を高めています。特にICチップとインターネットを駆使した環境対応物流管理システムは、製品の出荷から再資源化までを一元管理する循環型システムとなっており、CSRへの取り組みを強化したい大企業に対してコンサルティングを行い、さらに荷動きをデータベース化し顧客に具体的な数値情報として提供することで顧客側の物流コストの管理、さらにはISO14001等の認定基礎資料作成の支援にもつながっています。 |機動性と柔軟性を重視する  激しい変化の荒波を乗り越えていくために、自社のコア能力を保持しながらも環境の変化に適応していく、機動性と柔軟性の高い意思決定、財務力が必要となります。もはや、変化は決して例外的アクシデントではなく日常となりつつあります。企業は安定性が高くても硬直化した組織、財務体質では変化に対応することができません。  中小企業は、たとえ変化を自ら主導しないとしても、変化に積極的に対応できる機動性を備えておく必要があります。このとき、突発的な事態に備え、財務の堅牢性も兼ね備えておくことにも注意を払う必要があります。 |何を検討すべきか  コミュニケーション、知的資産の蓄積、機動性と柔軟性、これらの企業能力を高めていくために 企業は何を検討すべきかについて「戦略」「財務」「オペレーション」の三つの視点でまとめると以下のようになります。 ◆戦略面で求められる対応 <検討すべきポイント> ・コミュニケーションの質を重視する  {顧客との密度の濃いコミュニケーション、交渉によるアライアンスの合意、アカウンタビリティー(説明責任)} ・データの収集、蓄積を促す ・既存事業に縛られず機動性のある柔軟な意思決定を行う  (個別具体的なルールではなく、理念または原理原則に基づく判断) <推奨されるアクション> ①戦略のチェック、再検討、見直しを継続的に行う ②ビジョン、思想、哲学、価値観、体験に基づくサービスを強化する ③知的資産を重視した経営を行う(富の源泉となるのは知識創造能力、データ資産) ④収益性の低い事業から、高い事業に経営資源を再配分する(M&Aによる撤退、買収を含む) ⑤景気後退期の積極的買収を検討する ⑥重要な変化のシグナルか、ただのノイズか見分けるために、広く深く議論する ◆財務面で求められる対応 <検討すべきポイント> ・バランスシート(資産構成)の柔軟性を高める <推奨されるアクション> ①現預金残高を高く保つ ②在庫、売掛金を圧縮する ③固定資産の流動化を検討する ④好況期からの複数の銀行、投資家と積極的に関係をつくる(後退期に慌てて取引開始しない) ⑤債務比率を機会とリスクに応じてコントロールする ◆オペレーション面で求められる対応 <検討すべきポイント> ・運営面の柔軟性を高める <推奨されるアクション> ①現金創出力を重視する ②経費の流動性を高める ③アウトソーシングを積極的に活用する ④販売管理費を削減する ⑤一律の経費削減を行わない(メリハリのある投資) 参考文献 『第五の権力: Googleには見えている未来』 THE NEW DIGITAL AGE エリック・シュミット、ジャレッド・コーエン 2013 『インテル戦略転換』 Only the Paranoid Survive: how to exploit the crisis points that challenge every company and career アンドリュー・S・グローブ 1996 『知識創造企業』 The Knowledge-Creating Company: How Japanese Companies Create the Dynamics of Innovation 野中郁次郎、竹内弘高 1995 『カオティクス: 波乱の時代のマーケティングと経営』 CHAOTICS: The Business of Managing and Marketing in the Age of Turbulence フィリップ・コトラー、ジョン・A・キャスリオーネ 2009

  • どのようにしてビジョンを従業員、顧客の行動につなげるか

    経営理念、経営ビジョン、クレド、社是、社訓、ミッション、バリュー、コミットメント、コンセプト… 企業には、様々な理念が掲げられていますが (時には名画のように額縁に飾られていることもあります)、 それらの言葉が自ら社員を行動に駆り立てるまでに至っている企業は実際にはとても少ないでしょう。 では、経営理念は無用の長物なのでしょうか? それとも、経営者のエゴに過ぎないのでしょうか? いえ、決してそうではありません。 むしろ、以前より一層重要性が高まってきています。 終身雇用制が過去のものとなり、 緩やかな連帯でつながる新しい雇用関係(いずれ1人で複数社に勤めることも当たり前のことになるでしょう)が主流となり、 物理的に従業員を拘束することによって組織をまとめることは難しくなってきています。 そのような雇用関係の中では、 “共有された価値基準”によって一人一人が強固につながり、結束することが不可欠となります。 また、現在の市場環境についても、 自社、競合、顧客をはっきりと分けることは非常に難しくなってきています。 例えば、アマゾンは、インターネット通販の本屋だと思っていたら、ドローンの開発で先行する最強の物流会社であり、またクラウドサービスのインフラ事業においてはマイクロソフト、グーグル、IBMを大きく引き離してシェアトップになっています。 成長著しいairbnbについても、ホテル業界はまさか個人宅が競合になるとは思いもしていなかったでしょう。 また、Ubarは現在、タクシーの代替サービスとして配車サービスを提供していますが、ロボティクス技術の進展に伴い、自動運転車、AI搭載ロボットと人間とのコミュニケーション・プラットフォームとなっていくことも考えられます。 このような複雑な市場環境においては、組織の意思決定にあたり定量的なデータだけでなく、定量化できない主観的価値についても経営理念という組織独自の共通の尺度によって評価する必要があります。 また、商品・サービスの提供を通じて外部環境とつながるだけではなく、 明瞭なメッセージを絶えず発信し、価値観を共有することによって、自社の進んでいく方向を明確にしていくことが求められます。 つまり「私たちは何の会社なのか?」ということを、私たちは以前にも増して、より一層深く検討していく必要があります。 そこで本稿では、意思決定プロセスの設計、従業員へのインセンティブの設定、顧客への効果的な自社ブランディングを行うための経営理念構築のフレームワークを提示します。 では、多くの経営理念の浸透の妨げとなっているものは何なのでしょうか? ボトルネックは何かを考えるにあたって、 経営理念の機能について考えてみましょう。 経営理念はいくつかの機能が組み合わさって成り立っています。 (例) ・未来を予測する ・長期的な目標を示す ・蓄えるべき知を示す ・約束する ・生み出す価値を明確にする ・価値基準を共有する ・経営者、従業員を鼓舞する ・経営者、従業員に規範を与える ・自社の個性を表す ・それに向かって努力をすることを求める ・適合しないものを取り除く ・必要となる人材や資源を明らかにする ・貢献する対象を明らかにする これらの機能が、対象も方向も別々に働いていては効果的ではありません。 対象、方向、内容が“明瞭で一貫していること”、また“トップの行動と一致”していることが必要です。 経営理念の浸透に失敗している企業では、 企業からのメッセージの焦点が不明瞭となっているケース、 発信しているメッセージと意思決定プロセス、インセンティブに関連性がなく目先利益の大小だけで物事が決まってしまっているケース、 もしくはメッセージとトップの行動が一致していないケース、 などが見受けられます。 経営理念浸透の妨げとなっているのは、 経営理念の持つ機能の豊富さに対して、定義づけが甘いため機能が効果的に働いていないことにあります。 むしろそれぞれの機能が場合によっては相反し、打ち消し合ってしまっていることすらあります。 そのため組織が不必要に混乱し、意思決定の停滞を引き起こしているのです。 では、それぞれの機能を効果的に働かせる経営理念を定義する前に、 経営理念の概念的側面を整理してみましょう。 まず、経営理念の持つ機能を3つの概念に分類する経営学の伝統的な考え方があります。 ・ビジョン(展望) ・バリュー(価値) ・ミッション(使命) ビジョン、バリュー、ミッションが、 組織の共有された意識となります。 “関係者の内面に働きかける力”とも言えるでしょう。 次に、ここではさらに、 内面に働きかける3つの力に、 実現のための3つの手段を加えます。 ・アクション(行動) ・ナレッジ(知識) ・ストラテジー(戦略) この3つの手段が、 “個人または組織の外部に働きかける力”となります。 これらの6つの要素の関連性と、 企業が情報を処理するにあたっての基準、プロセスを説明したものが、 「ビジョンから行動への6段階フレームワーク」です。 6段階のそれぞれの段階について、 上位の概念は、下位の概念を規定し、動機づけます。 下位の概念は、上位の概念の具体的実現に貢献します。 つまり、上位概念は下位概念の目的であり、 下位概念は上位概念の手段であるといえます。 例えば、 ビジョンは、どのような知識が必要となるかを決め、動機づけます。 また、新たな知識の創造がビジョンの実現の手段となります。 知識創造は、どのような価値を生み出す必要があるのかを決め、動機づけます。 そして、企業価値の蓄積が、知識創造の実現を可能にします。 (企業に価値があるからこそ、より多くの人からの協力を得ることができる) 企業価値を高めていくことが戦略の目的であり(価値を下げる戦略はありえない)、 戦略の成果によって、企業価値は高まります。 戦略に従って、個別の具体的ミッションが示され、行動によって実現されます。 また、より大きくとらえると、 ビジョンはどのような行動をすべきかを規定し、動機づけます。 そして、行動がともなってはじめて、ビジョンは実現にむかって動きだします。 このように各段階がお互いに影響し合い、目標への到達を促しているのです。 逆に、いずれかの段階の定義に適合しない企業活動は淘汰されていきます。 6つの段階をしっかりと定義して初めて、 トップのビジョンを一人一人の行動に効果的につなげることができるのです。 各段階を定義するために、 経営者は以下の質問に答えることで自社のメッセージの中で欠けている部分が見えてくることでしょう。 (ビジョン) 未来はどのような姿になっているか? その未来の中であなたの組織はどのような役割を担っているか? どのような想いがあるか? 野心的な展望をもっているか? (知識創造) どのような知識、経験、ネットワークを築き蓄えるのか? 新しいコンセプトを生みだしているか? (企業価値) どのようにして企業価値を高めるか? 顧客にとっての価値はなにか? (戦略) 業界のルールを書き直し、新しい市場を生み出し、そこで競争優位を獲得していくための展望を持っているか? いま最も重要な課題の本質は何か? (ミッション) 私たちはこのビジネスでどのように勝とうとしているのか? 明確で具体的な基本方針を示しているか? 目標、予算、課題は何か? (行動) 効果的に行動し、目標実現のために主体的に動いているか? 経営陣自ら、行動を起こしているか? 次に、各段階の性質と、 他の段階との関係性を考えてみたいと思います。 6つの段階のうち、 「ビジョン」と「知識創造」は、抽象的概念です。 「行動」「戦略」「ミッション」は、具体的概念です。 そして、抽象的概念と具体的概念をつなぎ合わせ、 お互いの力を変換し働かせるインターフェイスとなっているのが「企業価値」です。 価値は、計算でき、とても明確で明瞭です。 実体のない抽象的な概念を、数学的明瞭さをもって、具体的なアクションに変換します。 また、現実の物理的なアクションを、抽象的な概念、理想の実現に昇華させる役割を担います。 これらの抽象的、具体的、明瞭と性質の異なる6つの段階を検討、定義し、整合性をもたせ、 エッセンスが要約されたメッセージとして統合することによって、経営理念を効果的に機能させることができます。 またメッセージはトップの行動で示されることでより強く速く機能します。 「ビジョンから行動への6段階フレームワーク」を活用することで、 柔軟な意思決定プロセスの設計、従業員のモチベーションを高めるインセンティブ設定、効果的なメッセージによる自社ブランディングを構築することができます。 しっかりと各段階を定義し、ダイナミックに連動させていくことで、 組織は外部環境にも影響を与えながら、ビジョンを行動に結びつけて、行動をビジョンの実現につなげていくことができるのです。 参考文献: 『知識創造企業』 The Knowledge-Creating Company: How Japanese Companies Create the Dynamics of Innovation 野中郁次郎、竹内弘高 1995 『コア・コンピタンス経営 :未来への競争戦略』 Competing for the Future ゲイリー・ハメル、C.K.プラハラード 1994 『企業価値評価 : バリュエーションの理論と実践 第5版』 Valuation : Measuring and Managing the Value of Companies, Fifth Edition マッキンゼー・アンド・カンパニー、ティム・コラー、マーク・フーカート、デイビッド・ウェッセルズ 1990,1994,2000,2005,2010

  • ❛00年代以降の産業メカニズムの重要な変化

    市場の変化が早くついていくのに精一杯…、 年々利益率が低下している…、 市場そのものが失くなってしまった…、 以前と同じようにもしくはそれ以上に取り組んでいるが業績は悪化していく…。  このような中小企業経営者の声をよく聞きます。  また中小企業だけでなく、マクロ経済レベルで俯瞰しても、いま世界経済は突発的な変化、アクシデントが頻発し、その対応に混迷しているように見えます。  その一方で、その荒波にまるで波乗りするかのように、高い成長率を継続して実現する企業も多く現れてきています。  これらの現象の背景について考えてみましょう。 | 2000年代以降、産業のメカニズムが大きく変わった  あなたは'00年代以降、産業を動かすメカニズムが様変わりしてしまったことにお気づきでしょうか?  このメカニズムの変化を理解しなければ、新しい技術、熾烈な競争、代替サービスの登場による止まることを知らない利益率の低下、懸命に事業に取り組んでいるにも関わらず、なぜ業績は徐々に悪化していくのかについて理解することはできません。そして、長期低迷にあえぐ企業がある一方で、産業メカニズムの変化をとらえ、突如新星のごとく現れ、成熟市場に風穴をあけることで新たな需要を創出している企業もあります。  低迷する企業と、躍進を遂げる企業とでは何が違うのでしょうか?  いまこそ経営者は、産業のメカニズムが'00年代以前と以降とでは全く変わってしまったことを理解し、学ぶ必要があります。  本稿では、産業のメカニズムの変化と、そのことによってもたらされた重要な三つの事実について考察します。  まず、この20年で産業のメカニズムが変わった原因の根底には、IT化とグローバル化があります。  ITテクノロジーとグローバリゼーションがもたらす直接的な変化については、すでに実感されていることでしょう。 意外なところで、IT化とグローバル化が特に顕著な(そして本質的な)変化をもたらしたのが、実は「金融」です。 これが第一の重要な事実です。 | 重要な事実① 実体経済 対 金融経済の規模の比が「10倍」以上になっている  普段の日常的な製品・サービスの金銭的取引のことをを実体経済といいます。 運用やリスクヘッジのための金融資産の取引のことを金融経済といいます。  実体経済と金融経済の比率はGDPと金融資産残高の比率で比較されることが多いのですが、1980年には実体経済対金融経済の比率は1:1.07に過ぎませんでした。両者はほぼ同じ規模の存在だったのです。  しかし、その後金融経済が急激な膨張を見せ始めます。1990年には実体経済の約2倍に、2000年代には約3.5倍に、現在では10倍以上と言われています。  90年代初期までの健全な時代においては、金融経済は実体経済の潤滑油として機能していました。事業機会があれば経営者は、内部留保に加えて銀行から担保の範囲で資金を調達し投資を行い、投資によって生まれたキャッシュを借入資金の返済や株主への配当として還元されていました。  ところが90年代以降、米国において、コンピュータの発達と足並みを揃えるようにして金融理論も大きく発展を遂げ、デリバティブと呼ばれる先端的金融手法が開発され広く普及しました。様々なオプションによってリスクが分散されたことで、金融資産は大きなレバレッジをかけて運用されるようになりました。  また、IT化とグローバル化によって、世界の金融市場はつながり、巨額の資金が短時間で世界中を動くようになったのです。 この事実が与える影響は、無視できないというよりも非常に重要なものとなっています。  なぜモノづくりに強い日本企業が海外勢に負け続けているのか、その理由もここにあります。  日本企業は投資にあたって、まずどのぐらいの投資ができるのかということから投資規模を考えます。もしくは自社の現在の技術や、保有する資産をもとに何ができるかを検討します。  一方で、海外企業はまず今後の競争に勝ち残るためにはどの程度のリソース、そして資金が必要なのかという点から検討します。そして彼らは勝つことを前提に、巨大な金融市場から潤沢な資金を調達し、競争に臨みます。 いかに日本企業の現在の技術が優れていたとしても、未来の競争に対する想定、準備資金、戦略の次元が全く異なれば多勢に無勢、勝負になりません。  日本企業の経営者はこの事実について、学ぶ必要があります。 | 重要な事実② 企業の数が余剰になっている  IT化とグローバル化によって、世界にひとつの大きな市場ができたと言っても過言ではないでしょう。  市場がグローバル市場としてひとつになったことによって、国内市場に大きなシェアを占めていた大企業も、グローバル市場の小さなプレイヤーとなってしまいました。グローバル市場での生き残りをかけた企業の競争も激化しました。例えば日本の液晶テレビのメーカーは数社かもしれませんが、世界で考えると数十社もの液晶テレビメーカーは必要なくなってしまったことは市場構造を考えれば、明らかです。  グローバル市場が生まれたことによって、世界的に企業の数が過剰になってしまったのです。  ローカル市場においても、'00年代以前は同じ地域の同業他社が主な競争相手でしたが、現在は、インターネット上で比較対象とされる様々な業種と競合します。そのため、企業は顧客からの厳しい選別に直面しています。  過剰な生産能力、過剰な販売網、過剰なブランド数、増える競合・代替サービス…、こういった事柄に対処していくために、企業の経営者は「選択と集中」を今までとは違う、さらに研ぎ澄まされた次元で取り組まなければならなくなったのです。  この新しい競争環境のもとで、わずかでも競争相手に対して抜きんでるためには、自社の戦う土俵を90年代以上に絞り込まなければなりません。優れた企業として生き残るには、中核事業のフォーカスは絞り込み、非中核事業は切り離していく必要があります。 | 重要な事実③ 製品・サービス市場のライフサイクルが短縮化している  潤沢な資金の供給と、グローバル供給網(サプライヤーのグローバル化、最適地化)の発達によって、市場への製品・サービス投下と普及のスピードが短縮され、製品・サービス市場のライフサイクルは急激に短くなってきています。  以前は、じっくりと開発に取り組んだとしても、差別化された製品を市場に送り込めば、一定期間は差別化による超過利潤を企業は得ることができ、開発コストを消化することができましたが、いまでは瞬く間にその先行者利益は消え、短期的に矢継ぎ早に市場に新商品を投下していかなければ優位性を維持することはできなくなってきました。  そのため、企業は社内のリソースの活用だけでなく、よりオープンな環境で社外リソースも取り込んで開発スピードを高める方法を模索しています。例えば、以前であれば、あるシステムを開発した際にそのソースコードは重要機密として社内で慎重に扱われていましたが、いまでは、ソースコードを社外にも公開することによって(オープンソース)、社外の開発リソースを巻き込むビジネスモデルが主流となってきています。  オープンソースによるプラットフォームを確立できた企業は、安定した基盤を獲得します。 一方、多くの企業はプラットフォーム型企業に乗っかる形で生き残りを図るしか方法がないという場合もあります。  また、製品・サービス市場のライフサイクルの短縮化によって、中小企業にとってより重大な問題が起こることも考えられます。 それは、製品・サービスのライフサイクルが、人材育成期間よりも短くなりつつあること、顧客との関係構築よりも短くなりつつあることです。  つまり、いままで中小企業は、専門性の高い人材の教育と、顧客との緊密な関係性の構築によって、付加価値を生み出し単価を維持してきましたが、今後は、ある事業に対して専門性を有する人材を育成する期間よりも、顧客を獲得し信頼関係を築くよりも、事業が属する市場そのものの寿命のほうが短くなってしまうということも充分に考えられます。  ある事業のオペレーションを任せられる人材が育つよりも早く、市場が飽和し成長機会が縮小してしまう。 顧客から特定の商品・サービスに関しての信頼を得るよりも早く、市場が飽和し成長機会が縮小してしまう。 ターゲット層に自社や自社サービスの存在が認知されるよりも早く、市場が飽和し成長機会が縮小してしまう。  このことは、経営者はマネジメント方法について品質管理、人材育成、顧客満足以上のことを考えていかなければならないことを暗示しています。  経営哲学者のピーター・ドラッカーは、かつて「すでに起こった未来」という表現を好んで使っていました。 未来を予言することはできませんが、すでに起こった変化の予兆を注意深く観察し、将来に備えることは可能です。  経営者の方は、産業メカニズムの変化について十分にご留意いただき、今後の自社の戦略策定に活かしていただきたいと思います。 参考文献: 『世界を壊す金融資本主義』 Le capitalisme total ジャン・ペイルルヴァッド 2005

  • 経営人材育成のためのM&A戦略

    「ある日突然、事業のトップになることを求められたらどうするか?」 常日頃から、そのような意識で仕事に臨んでいる社員があなたの会社にはどのぐらいいるでしょうか? 市場環境が急速に変化していくなかで、中小企業に必要な「経営人材」を育成していくための方法論を提示します。 |経営者意識を持った人材を育成する いま、中小企業にもイノベーションが求められています。かつてのように中小企業は大企業の下請けという時代は遠い過去のものとなりました。市場環境がめまぐるしく変化していくなかで、変化に対応し、変化を機会としてとらえ、さらには自ら変化を引き起こしていく、そのような姿勢が中小企業の経営にも求められています。 しかしながら、豊富な経営資源に恵まれた大企業とは異なり、中小企業は限られた資源のなかで変化に対応していかなければなりません。特に、中小企業にとって優秀な人材は慢性的に不足しており、経営者意識を持った人材の育成は企業の将来を左右する大きな課題と言えるでしょう。また逆に、優秀な人材がたまたま入社してきたとしても、やりがいを感じさせる仕事が与えられず去ってしまったということも、身に覚えがある方も多いのではないでしょうか。 いま中小企業に必要とされているのは、いままで経験したことのない不確実な領域に出ていく際に、自ら陣頭指揮をとり先兵となって攻めていくことのできる経営能力を持ったリーダーです。または、現在業界で当たり前になっている競争のルールに穴を開け、自分で競争のルールを創り出していくことのできる人材です。このようなリーダー、人材を本稿における「経営人材」と定義します。 今回は、「経営人材」をM&Aという経営ツールを活用して育成する方法をご紹介します。 |どのようにして学ぶのか 経営人材を育成していくにあたり、まず人の成長は何によって決まるのでしょうか。図1は成功した管理職への調査によって割り出された、成長を決定する要因の比率です。この比率は「70:20:10の法則」と呼ばれています。この法則によると、人の成長の70%は職務を通じた実務経験からの学び、20%は他者からの学び、10%は読書・研修からの学びによって決まります。 実務経験からの学びとは、職務の遂行を通して知識やスキルを得ることを指しています。他者からの学びとは、上司や先輩からの指導を通じて鍛えられることです。読書・研修からの学びは、本を読んだり、研修やセミナーに参加することで学習することです。 つまり、人は成長するにあたって、直接自ら行い、試行錯誤し、経験し、振り返ることを通じて学ぶことが、一番大きなウェイトを占めているのです。 経営管理職はどうしても社長のそばで、本部機能といういわば聖域の中でハウス栽培してしまっていることが多いように見受けられます。しかし、ハウス栽培式の育成方法では官僚主義を助長すれども、自ら経験するという点において決定的に欠けてしまっており、本質的な部分での経営人材の資質は磨かれることはありません。 経営人材を育成するにあたっては、ナンバーツーを育成することとは全く異なる方法によって育成する必要があります。経営人材の育成において、重要になるのが「危機感」と「リスク」に対する意識です。 わが社の社員には危機意識が足りていない、という中小企業経営者の方の声を多く聞きます。しかしながら、組織という傘によって守られながら、経営者と同じ危機意識を共有するということは、ある意味、矛盾している要求だということを理解しなくてはなりません。経営者の持つ「危機感」は事業をワンパッケージで生産から販売、管理、財務までに「責任」と「リスク」を持つことによってはじめて感じるものだと言っても過言ではないでしょう。つまり、経営人材になるということは、組織の傘に守られる側から、自らが組織を守る傘になるということです。 経営者でいるということは、「危機感」を常に抱えて生きていくということに他なりません。そしてこの危機感は、自ら経験して、体感することによってのみ理解することができる性質のものです。 経営人材の育成にあたっては、自ら経営をトップとして行う経験を通じて育成していくことが最も効果的だと私たちは考えています。そして育成の舞台としてM&Aという経営ツールは非常に効果的であると実感しています。さらに、経営経験によって培われた本質的な「危機感」こそが新たなイノベーションの種子となるのです。 |M&Aによる空白スペース、余剰資源のマネジメント 近年、日本においてもM&Aという経営手法が徐々に定着してきました。まだM&Aというと大企業のものという見方も多いのが事実ですが、零細企業から飲食店まで、中小企業同士のM&Aも増加傾向にあります。 例えば店舗型ビジネスのM&Aの場合、店舗出店の際に新たにゼロから店舗をつくるのに比べ、既存の設備、人材を活用して店舗業態を再構築することによって出店の初期投資額を格段に抑えられることと、全くの新設店舗に比べて、出店後の収支の予測がたてやすいことが大きなメリットといえます。東京都大田区の飲食チェーン「二代目叶え家グループ」は近隣の不採算店を中心に買収を行うことで、創業からわずか2年で5店舗をオープンさせて顧客目線のサービスを武器に高い利益率を達成しています。 自社の既存事業のうち、いま現在の主な収益源となっている主軸事業には、自社のノウハウ、スキル、経営資源などが蓄えられています。その一方で主軸事業が既に事業ライフサイクルにおいて成熟期を迎えており、将来的な成長が大きくは見込まれないとしましょう。その場合、主軸事業の主な業務は取り組み方も定型的で人材の成長余地も限られてしまっています。このような状況において経営人材に育てていくには、既存のノウハウ、スキルを思う存分に発揮できる、「空白スペース」が必要となります。もちろん、この空白スペースは新規事業の立ち上げという形でつくりだすことも可能ですが、ゼロからの新規事業の立ち上げは収支予測も立てづらく、スケジュールも計画通りにはなかなか進みません。 空白スペースをつくりだすのにあたって、M&Aによって事業そのものを取得する場合には、あらかじめ計画が立てやすいことが大きなメリットです。取得する事業の元々の実績、特徴から事前に計画をたてやすい反面、その事業は別オーナーがなにかしらの理由で撤退するわけですから、課題を抱えていることにも留意する必要があります。 人材を送り込み自社の強みとなるノウハウ、スキルを移転し、取得事業の課題を解決し、さらには取得事業の強み、または課題解決で得られた学習効果を、自社に持ち帰ることが送り込まれた人材のミッションとなります。当然ながら、経営人材は取得事業の会計、財務も含めた事業責任をトータルで受け持つこととなります。 事業を買収する際には、自社の有望な若手数名と事前に取得事業の潜在価値を十分に検討し、勝算を見込んだ上で、取得事業の経営に入り込んでいきます。取得事業の抱える課題に対しては、あらかじめ仮説と改善策を準備し、1~2か月程度で実態を掌握し取得後2~6ヶ月の期間で改善策を実行していきます。 事業取得後、しばらくは寝る間も惜しむほど多忙を極めますが、取得事業が軌道に乗ったときには、送り込んだ人材は経営者意識を持った人材「経営人材」として成長を遂げていることでしょう。またその後も、取得事業の代表者または役員として、経営者としての危機感を持ち、事業経営に取り組んでくれることが期待できます。 新たに獲得する「空白スペース」をM&Aによってつくりだすことと同時に、検討する必要があるのは、「既存事業の縮小・撤退」です。買収によって事業の拡大を目指すのに、なぜ縮小・撤退を同時に検討する必要があるのかと疑問に思われるかもしれませんが、「資源を、生産性が低く成果の乏しい分野から、生産性が高く成果の大きい分野に動かしていく」ことが筋肉質な経営のために重要になるのです。生産性の低い分野から人材を含めた経営資源を引き上げ「余剰資源」をつくりだし、その余剰資源を成長見込みのある「空白スペース」に振り向けていく、この方法を私たちは「M&Aによる空白スペース、余剰資源のマネジメント」と呼んでいます。 「M&Aによる空白スペース、余剰資源のマネジメント」で重要となるのは、自社の既存事業と取得見込み事業を継続的に評価することです。自社の事業の売却、新たな事業の取得を検討することによって、自社における事業の価値・ポテンシャル・機会を継続的にチェックし、客観的に評価・意思決定を行う能力が培われることが大きな収穫といえるでしょう。また、経営者が各事業の評価を行い買収であれ売却であれM&Aを実行する際には、トップ自らの戦略的行動として、社員に対して強烈なメッセージが伝わります。このことも社内の危機感醸成にとって効果的です。 |経営トップの責任 いままで述べてきたように、M&Aを活用した経営人材の育成は、育成対象となる人材が少人数で取得事業にパラシュート降下し、取得事業の課題を解決していくことで実践から学んでいきます。育成対象の人材がキャッシュフローも含めて管理することによって、経営を自ら経験し、経営者としての自覚と責任を育んでいくことが大きな特徴です。新規事業の立ち上げの経験があり、チームビルディングの実績がある若手が自ら志願して取り組む形が理想でしょう。 多くの中小企業では、志ある人材が既存事業で実力をつけていった後、その後のキャリアが描ききれず意欲を失い、かつてのエースが普通のベテランとなってしまう、場合によっては会社を去っていくということを繰り返してしまっています。特に創業社長がまだトップにいる場合など、事業部責任者となった以後のキャリアストーリーが描きにくいことなどが、惰性での取り組みにつながり成長を阻害しているように思えます。 意欲ある人材に対しては、挑戦の機会とキャリアの展望を示していくことが、優秀な人材を確保していくための経営トップの責任といえるのではないでしょうか。そして人材側としても事業経営の怖さとリスクを、言葉だけでなく経験的に学習していく必要があるでしょう。 |学習機会をマネジメントする 経営人材を育成していくにあたって、買収する企業または事業をどのような視点で選択すべきか、ということについても考えておく必要があります。 この検討の土台となるのが3~8年の長期視点での「戦略設計図」の作成です。戦略設計図は基本的に大枠を示すもので、これに基づいて新しい機能を取捨選択し、新しい企業能力を獲得したり、既存の企業力を調整して、顧客との接点を作り直します。たとえば、東京都文京区のある教育出版社は教師が学生の興味や能力に応じてカスタマイズできる電子書籍の販売を開始する際に、3年という期間でどのようなIT技術に投資を行い、またどのような流通手段を構築すればよいのかを検討し戦略設計図を作成し、徐々に自社に必要な能力を構築していくことで、電子書籍事業に主軸を移すことに成功しました。 社会変化に対応した事業転換を図っていく際に、収益性と同等に重要になるのが「学習機会をマネジメントする」ことです。事業転換、人材の育成にあたり、短期での採算を合わせつつも学習という視点を持つことで、失敗に対する受容力が高まります。単に収益目的で始めた事業であれば、不採算となった場合には、確かに単なる失敗といえるでしょう。しかし、学習という視点を同時に持っていれば、採算面での失敗はむしろ「失敗の達成」とでもいうべきもので、仮に早期撤退するにせよ自社には「戦略設計図」に基づいた企業力の蓄積と、「経験」が残ります。 経営人材の育成にあたっては、自社に将来必要な能力、企業力をあらかじめ「戦略設計図」としてまとめ、失敗すらも貴重な経験として取り込んでいく必要があります。

  • 未来志向の戦略が企業価値を生みだす

    「企業価値」とは、企業の金銭的価値、つまり「会社の値段」のことです。 企業価値は、その企業が将来生み出すキャッシュフローの現在価値の総和として表すことができます。 高い企業価値は、企業価値を担保に事業に必要な資金の調達を容易にし、 更なる成長の機会を与えてくれます。 ここでは企業価値の計算方法の詳細については省略しますが、 肝心なことは、企業価値はその企業から「将来生まれるキャッシュ」の量によって決まるということです。 つまり、企業価値は、その企業が事業に対して過去どのような資本を投入したのか、 もしくは過去の結果がどうだったのかによって決まるのではありません。 過去の結果は、参考となる重要なデータには違いありませんが、 企業価値を決めるのは、あくまでその企業が将来生み出すことが予想されるキャッシュの量なのです。 私たちは「企業価値を中心に据えた戦略的会計」をいわゆる一般的な会計と区別して、 よくこういう例えを使います。 「バックミラーではなく、前方を見て運転をする」 前方、つまり未来を見据えて企業運営を行うことによって、 私たちは新たな企業価値を創造することができます。 経営者の役割は、 企業が将来生み出すキャッシュフローを計画し、 計画を実行に移すことです。 将来のキャッシュフローが十分に予想される計画の場合、 計画を立てた時点で企業価値は創造され、価値は上昇します。 もちろん、計画を実行しても十分な結果が得られなかった時は、 その時、企業価値は損なわれます。 しかし、計画の実行の結果に伴う、企業価値の毀損については、 株主側のリスク判断による面もあるため、計画の想定の範囲内であれば 経営者は責任を部分的には果たしているとも言えます。 逆に、計画が将来のキャッシュフローが十分に見込めない場合、 計画を立てた時点から企業価値は損なわれることになります。 この場合には、企業価値の毀損の責任は100%経営者にあります。 経営者の立てる事業計画次第で 企業価値は上がりもすれば、下がりもするのです。 ここで、2つのグラフを見てみましょう。 図表1は、成熟市場で事業展開するA社のキャッシュフローの現在価値を表しています。 A社は、現在の年商50億、営業利益3億の会社です。 売上、営業利益は横這いで推移していくことを見込んでいます。 A社の企業価値は既存の事業に依拠し、 過去の実績に基づいて、現状を維持することを念頭に算出されています。 数年先のキャッシュフローはリスクによってディスカウント(割引)されるため、 企業価値の大部分は近い将来のキャッシュフローの現在価値が占めています。 図表2は、成長市場を展望するB社のキャッシュフローの現在価値を表しています。 B社は、現在の年商5億、営業利益は3000万の会社です。 売上、営業利益は5年先から急成長が見込まれています。 B社の企業価値は、新しい市場をつくりだし、 将来の予測に基づいて、新たな価値を創出することを念頭に算出されています。 そのため、企業価値の大部分は10年目以降のキャッシュフローの現在価値が占めています。 2つのグラフを並べて比較してみると、両社の違いがより鮮明になります。 現時点ではB社はA社の1/10の売上規模に過ぎないにも関わらず、 B社はA社の10倍以上の企業価値があります。(図表3) この結果は、A社とB社の戦略の違いによりもたらされています。 A社は成熟市場を選択し、B社は将来性のある成長市場を選択しています。 経営者は戦略的に市場を選択し、 “ Bの戦略ポジション ”を選択することで、 企業価値を創造することが可能になります。 Aのポジションから、Bのポジションを選択し移行すること、 これが戦略の基本です。 現在、盤石な経営基盤のある企業であったとしても 戦略の見直しを行い、Bのポジジションを選択する姿勢がなければ 企業価値を創造することはできません。 逆に、現在どんなに小さな事業であったとしても、 将来の展望に基づいて、市場を見誤らずにBのポジションを選択し、 将来のキャッシュフローを十分に見込める戦略を持つことで、 大きく企業価値を創造することが可能になります。 企業の売上高成長率の2/3以上は、 市場自体の成長によりもたらされているという研究結果もあります。 既存の市場において競合企業に競り勝ちシェアを奪うことによって、 成長の拡大がもたらされることは、 実際にはほとんど微々たるものです。 業務改善も、 企業価値の創出に若干の貢献はするかもしれませんが、 企業の戦略ポジションがAからBに移行することはありません。 安定推移を予測していたはずのAの成熟市場が 外部要因の急変によって、突如市場ごと消えてなくなることもありえます。 つまり、どこに立つのか?ということが、決定的に重要になってくるのです。 そして現在、市場は大きな変化を迎えようとしています。 モバイルコンピューティングに代表されるテクノロジーの進展が その変化をもたらそうとしています。 あらゆるものが、インターネットと繋がろうとしている中で、 大きな成長機会は数多く考えられます。 いま経営者には、 将来どのように世の中が変わっていくのかについてビジョンを持ち、 成長性の高いポジションBの戦略を持つことで、 企業価値を創造することが求められています。 つまり、いま経営者には「新しい市場を創りだす意志と展望」が求められているのです。 参考文献: 『ゼロ・トゥ・ワン―君はゼロから何を生み出せるか』 Zero to One: Notes on Startups, or How to Build the Future ピーター・ティール、ブレイク・マスターズ 2014 『インテル戦略転換』 Only the Paranoid Survive: how to exploit the crisis points that challenge every company and career アンドリュー・S・グローブ 1996 『コア・コンピタンス経営 :未来への競争戦略』 Competing for the Future ゲイリー・ハメル、C.K.プラハラード 1994

  • 小さなM&Aで独立開業する起業のメリット

    大型のM&A(合併と買収)のニュースが日々報じられています。数十億、数百億円、数千億という規模の買収となると中小零細企業の経営者にとっては、別次元の話のように思えますが、「会社(事業)の売り買い」は意外と身近なレベルにまで浸透し始めてきています。小規模事業の売買であっても、買い手にも売り手にも、確かなメリットをもたらしている事例が増えてきています。 例えば買い手の場合、飲食店を開業したいという独立希望者が、ゼロから店を借りて内装や厨房設備等を購入すると2千万円の資金がかかるようなケースを想定しましょう。しかし、既に営業している飲食店の営業権を現オーナーから買取る方法なら、その半分以下の資金で“自分の店”を持つことが可能です。 また、ゼロから開業する場合に比べて、既存客を取り込める可能性も高く創業時の不安定な時期のリスクを抑えられ、事業計画も立てやすく、あらかじめ課題に備えることができます。 事業の売り手の場合、「事業継承」といえば親から子供へと会社が引き継がれていくケースがまず連想されます。しかし近年、後継者不足に悩む高齢の経営者が増えてきており、国内でも中小の会社や事業、店舗を事業継続意欲のある「第三者」に譲渡することで継承していく必要性が一層、高まってきています。確かな目論見のある事業の引き継ぎ手が得られれば、売り手側としても手離れよく事業を引き渡すことができ、安心してセカンドライフを過ごすことができます。 そして、事業を承継せず廃業するとなると、廃業のため多額の清算費用(例えばテナントの原状回復費用など)がかかってしまいますが、事業を売却によって承継する場合には、いくらかの株式譲渡益を見込むこともできます。 M&A先進国の米国では、中小規模の会社や事業の売買は、ビジネス・ブローカーという専門の仲介業者を介して行うことが普及しています。ちょうど街中の不動産業者を利用するような感覚で、会社や店舗を売買することができる環境が整備されています。 中小の事業が売買取引される理由は様々ですが、高齢の経営者が“ 廃業 ”という方法ではなく“ 第三者への事業承継 ”を希望するケースや、全国展開する大手グループ企業が地方で繁盛している小規模グループ企業を戦略的に買収するケースもあります。 このようなM&A取引は不動産や中古車の売買に似ていて、売り手と買い手との間に仲介者が立って、適正な売買金額を査定して取引の交渉がされています。M&Aの事業の買い手(もしくは売り手)探しから、価値評価、譲渡価格の交渉、契約手続きなどの多岐にわたる実務を、M&A経験豊富な仲介業者がサポートしています。 中小事業の円滑な承継、売却、買収ができる環境があることで、これから事業を始めようとする独立希望者、事業を拡大したい経営者、事業を縮小したい経営者、引退を控えている経営者に、より多くの選択肢がもたらされているのです。 そしてこのようなM&A環境が整備されていくことによって、起業家たちが何度でも再起を図ることができる「失敗に対する許容度が高い」社会をつくりだしていくことにもつながっていきます。

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